2016年8月31日水曜日

エアバッグの危険性は語られないのか?

先日の事故のニュース。
ある母親が運転ミスで電柱に激突し、助手席に乗せていた女の子が死亡した。
女の子はシートベルトを締めていたが、チャイルドシートは使っていなかった(後部座席にあった)。
そして死因はエアバッグによる胸部圧迫だった。

私は、このニュースをみたその日、非常に心地悪い気分になった。
というのは、死因はエアバッグのなのに、エアバッグ使用の構造上の問題を一切マスコミでは取り上げないからだ。
悪いのは、チャイルドシートに子供を乗せなかった母親だ、と決めつけていた。

で、今日のニュースは、その母親の執行猶予付きの有罪判決が下った、というものだ。
論説は、事故当時のニュースとほとんど一緒。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160901-00000069-mbsnewsv-l27

ここでも、エアバッグの危険性はまったく語られない。
なぜなのだろう?
エアバッグが膨らまなかったら、女児は死ななかったであろう。なのに、なぜか「チャイルドシート不着用」という法律違反のせいで女児は死んだとしている。
問題がすり替えられている。

マスコミも、司法も、こんな程度の論理で話をするのかと思うと、鬱々とした気持ちになる。

 *

ところで、私はこの5月に茨城県の妻の実家に帰省した際、警察につかまった。
二男(0歳)チャイルドシートの不着用のかどである。
さらに、長男(5歳)のジュニアシートも不着用であった。
こんな状況では言い逃れなどできるはずもない、という残念そうな顔つきで、妻は子供たちといっしょに後部座席の窓から、警官と私のことをぼーっと見ていた。
案の定、2人の警官は言語道断だと息巻いた。

帰省中なので、チャイルドシート・ジュニアシートを用意していなかったというのはある。
沖縄の日常生活ではちゃんと備えている。

けれど、じっさいのところ、二男には妻が後部座席でおっぱいを飲ませていたという都合もあったし、チャイルドシートで泣く場合も多いので、ケースバイケースなのであって、使わないことも多い。

のみならず、じつは私たちには、非常に強い「チャイルドシート」への不満があった。
5歳の長男がまだ生まれたての頃、「安全のために、いいやつ買おうよ」ということになって、大手アップリカ製の比較的高価なチャイルドシートを購入した。
ところが、そのチャイルドシートは最初からキツかった。はや7ヶ月頃には長男は収まらなくなった。

何ということか、信じられないことに、・・肩にかけるベルトの長さがマックスにしても足りないのである。
たしかに長男は当時、かなり太っていた。しかし人間離れするほどに太ってはいなかったはずだ。
時間をかけてあれこれ試したがダメだった。
説明書を何度も見た。使い方は正しかった。

私鉄運転士をしている親友にも見てもらった。
彼はチャイルドシートにはうるさいタチだったが、あれこれいじって、首を傾げていた。
「こりゃ・・・分からんなあ! 不思議だ。ウチのは超簡単に調節できるのに、・・やっぱりベルトが短すぎる。不良品としか思えないけど・・・でもそんなもの、世の中に出すかなあ?」

私は、リュック用の余分なベルトを付け足して細工して工夫し、長男が少し大きくなるまでを持ちこたえたのだった。
よっぽど、質問及びクレームの連絡をアップリカに入れようと思ったが、・・・なんだかんだ生活にかまけて結局連絡しないままにしてしまった。


息巻く警察官に、いまごろになって私はその件を持ちだした。
午後3時ころで、ちょうどネズミ捕りをしているその場所では、次から次へと市民が犯罪を犯してネズミ捕りに引っかかり、罰金を払ったり、切符を切られたりしていた。

が、私はまったく引かなかった。納得いかないからだ。何万円も払って買ったチャイルドシートがちゃんと使えなかった恨みはいまもある。何が安全性だ。国家がちゃんとチェックしろというのだ。

ついでにいえば、ジュニアシートだって安全かどうかは分からないと思う。
子供にはよく使わせるが、ぐらぐらする。

ベテランお巡りさんとイケメンお巡りさんは、噛みつかんばかりの口調で切符をきろうと励んでいたが、私の剣幕とやっかいな論理に圧されて、ついに私を見切った。

「けどね、お父さん。子供の命を守ろうとは思わんのですか? ジュニアシートで座高を上げてやらないと、シートベルトが首に当たるでしょう。頸動脈を切って亡くなることだってあるんですよ、実際に!」

・・・この言葉には、さすがに私も言葉を失した。
私も素直になって、「すぐにジュニアシートは買って帰ります」と言った。
警察は、今回は見逃してくれた。帰りがけにリサイクル屋でジュニアシートの良い物を格安で買って、妻の実家に帰ったのだった。

しかし・・・ジュニアシートを使ってみても、あらためて変だと感じる。
ジュニアシートをしたって、子供の首にシートベルトは当たるのである!
馬鹿馬鹿しい。
子供には、「ななめのシートベルトを背中に回せ!」と言い聞かせる。正規の使い方ではないが、頸動脈でも切られたら元も子もない。

私が総理大臣だったら(←急に空想話になってしまうが)、シートベルトの構造自体を抜本的に変更させるだろう。当然、子供の首にも当たらないように。
エアバッグは、チャイルドシートがあってもなくても、子供も大人も圧迫死させない構造に移行させるだろう。命を守るための器具なのだから、これが当然の感性だと思う。

タカタ製のエアバッグの死亡事故のように、欠陥品がインパクトあるかたちで事故を起こせば、世間も国もマスコミも動くのだ。
しかし、じわじわと中途半端な習慣が行き渡り、それがルールとなっていると、さきの女児死亡事故のエアバッグや、このジュニアシートやチャイルドシートのように、わけのわからぬ本末転倒な事態がはびこったままになる。

変な世の中だ。




「南風原文化センター」にて

二、三日前。もうすぐ長男5才の夏休みが終わるので、近所の子どもらも一緒に車にのせて、どこかへ連れて行くことにした。
といっても大したアイデアはない。
『あそぼん』という、沖縄県内の子供の遊び場が掲載された雑誌を、後部座席の子らに手渡し、どこへ行きたいか決めさせた。
彼らはわーわー言いあいながら、車で30分ほどの距離にある住宅地の中の「国場川くねくね公園」というところに行きたい、と言った。

辿り着いてみると、ただ川沿いの住宅地の隙間を縫って、遊具や運動具や芝生が配置されただけの公園だったのだが、子どもたちは、
「ほんとうに、道がくねくねしてる!」
などといって大はしゃぎだ。5歳とか10歳というのは単純でよい。


その後、日差しも強いし学習もさせたいので、「南風原文化センター」という展示施設に連れて行った。ここは2度め。小学生は150円、大人は300円、こども園の子供らは無料。

入口から第二次大戦時の壕(ガマ)の野戦病院のレプリカが作ってあり、その中を歩くのも子供には怖い。長男は、その暗暗とした木製二段ベッドに体験的に寝そべることすらできない(上段には包帯巻きの負傷兵が寝ている)。
私は、「こんなこともできないほど弱虫なら、連れて帰らないぞ。戦争の時はもっともっと怖かったんだから」などと言ってうながした。
(翌朝、長男は「昨日の南風原文化センターのが怖すぎて、思い出してよく眠れなかった」と言いながら起きてきた。・・・)

その後子供たちは、「昭和の遊具コーナー」でひとしきりケンケンパをしたり、竹トンボを飛ばしまくってよく遊んだ。
なにげなくも、よい夏休みの過ごし方だっただろう。

施設を出る前にトイレに行った。用を足していると、目の前に張り紙がしてある。
トイレはきれいに使いましょう、とか、あるいは催し物のお知らせかな、などとぼんやり思いつつ、目を向けた。


 ―――――――――――――――――――――――――――――

  人は不合理、非論理、利己的です
  気にすることなく、人を愛しなさい

  あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
  気にすることなく、善を行いなさい

  目的を達しようとするとき、邪魔立てをする人に出会うことでしょう
  気にすることなく、やり遂げなさい

  善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
  気にすることなく、し続けなさい

  あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
  気にすることなく正直で、誠実であり続けなさい

  助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
  気にすることなく、助け続けなさい

  あなたの中の最良のものを、世に与えなさい
  蹴り返されるかもしれません
  でも気にすることなく、最良のものを与えなさい

                      マザー・テレサ

 ―――――――――――――――――――――――――――――


はからずも胸に沁み、すがすがしい気持ちでトイレを出て、帰途についた。

帰ったあと家族でラーメン屋に行った。ラーメンを待ちながら、妻に何の気もなしにそのことを話した。
「トイレに張り紙がしてあってさ。マザー・テレサの言葉で、いいことが書いてあって感動したよ」
話をそこで終わりにしたら、「ンで? なんて書いてあったのよ」と訊く。
暗記などしていないので私も言いよどんだ。二三、こんな風だったと我流で再現すると、妻は、
「いまのだけで感動しちゃった。うちのトイレにも貼ろ!」と言った。

私には、マザー・テレサと耳にすると、ついつい口してしまう話がある。
ちょうど10年前、ひとり旅でインドを訪れた時の思い出話。1週間ばかりコルカタ(カルカッタ)に滞在した折、マザー・テレサの建てた「死を待つ人々の家」のボランティアに参加したときのことだ。

毎朝、韓国人・日本人・西洋人の若者やおばさんの群に混じって安宿を出て、ぞろぞろと近所の教会に集まり、バナナ1本・牛乳1杯をいただいてから、配属された施設に向かって汚い街を歩いて行った。
歩くこともできない老人ばかりのベッドの並んだ施設。ボランティアたちは全身びしょ濡れになりながらせっせと素手で洗濯をし、急いで食事を作り、与え、あとはホースとブラシで大々的に床掃除。一連の作業はお昼頃に終わって、安宿に戻るのであった。

別の施設に配属された日は、そこがいわゆる「死を待つ人々の家」だった。
薄暗い石造りの教会のような、ちょっと雰囲気のよい荘厳な施設の中に、やはり老人ばかりのベッドが並んでいた。
そこでは老人たちに食事を食べさせたり、痩せた手脚をクリームでマッサージするのが仕事だった。ふむ、こういうふうにやるんだな、とコツを掴んできた頃、私は職員のお兄さんにおもむろに「あんた、来い!」と呼ばれた。
なんだろうと行ってみると、隣の小部屋に導かれた。腰巻き一丁のお爺さんが1人横たわっていた。
遺体安置室だった。
「彼は昨日、死んだんだ。そっち持って!」
え?え?ええっ?・・ 私はうろたえた。いきなりで、唐突すぎた。
しかも素手である。じつは何を隠そう、私は大の死体嫌いなのだ。
「はやく!」
老人の身体はすでに硬直していた。私は訳も分からず両手で老人の両脚を持ち、外の車まで一緒に運んだ。手も腕も脚も震えて仕方がなかった。放心状態に近かった。
が、とても不思議に感じたのは、老人の顔が爆笑したまま固まっていたことである。
亡くなった瞬間、すごく面白いことがあったのだろうか?
あるいは、すごく幸せだったのだろうか?
それとも逆に、・・・すごく辛くて、こういう顔をしたのだろうか。

その夜、いつものように安宿の屋上に出て涼みながら、旅人たちとまったりと話していた。
私は遺体運びの話をした。みな笑って聞いていたが、旅慣れた1人がこう言った。
「それは良かったですね。インドでは、遺体運びを任されるということは、とてもラッキーで、名誉なことなんですよ」

「そうなんですか!?」と私は驚いた。「へぇー」とその場の一同は新知識に感心した。
「じゃあ、よかったじゃないっすか!」と、おちゃらけた青年は言って、私の背中を叩いた。
「いいな~」「いいな~」と女の子たちは口々に、心にもなさそうな言い方で言った。

淡い談笑の印象に包まれた若い旅の日々は、遠ざかり、もうどこにもない。

  *

連れて行った子供のひとりが水筒を忘れてきたので、翌日また「南風原文化センター」へ、こんどは家族で出向いた。「昭和の遊びコーナー」でフラフープに挑戦したとき、その子は水筒をそのへんにひょいっと置いたのだ。
子供というのは面倒だ。

ついでだから、トイレでマザー・テレサの言葉をデジカメに収めてきた。
ここへまた来たのも無駄足ではなかった、と思った。

外に出ると青空が広々として美しかった。大きなちぎれ雲が動いていく。
湿った風が吹いていて、気持ちが清々する。
わが小家族は歩きながら、みな、日に照らされ、風に吹かれて心地よさそうだ。

関東で猛威を振るっているブーメラン台風10号が、遠く沖縄にも風を吹かせているのである。空が、どこまでもつながっているからだ、――などと当たり前のことを考えていた。





2016年8月26日金曜日

椅子の布の張り替え

昨日のDIY熱が冷めやらぬうちに、ほかのことも手を付けてしまおうと、今日はタッカーを使って椅子の布地の張り替えをした。赤子をあやしつつの力仕事だった。

この重厚なイスは、5年前、沖縄に越してきた時に嘉手納基地付近の大山通りの家具屋で購入したものだ。
大山は広い車通りである。両側が、だいたいアメリカ家具やアメリカグッズの店になっている。
ここは初めは中華系(台湾?)の家具・グッズの店店だったのだ。1980年代中頃には、のちに琉球ガラスの「現代の名工」に選出された稲嶺盛吉氏の工房もあった。

で、私どもは5年前、大山でアメリカ家具風の椅子2つとテーブルを購入したのだった。
椅子は1つ8,000円だった。
移動するのも重く感じる手作り家具だが、長男が大きくなってきたので、同じ椅子を買い求めにでかけたことがある。すると12,000円に値上がりしていたため、躊躇して帰ってきた。
そのくらいの価値はある椅子だった。が、わが小家族は狭々しいアパートぐらしなので、重々しい椅子がたくさんあっても不釣り合いだから、買わなくてよかったのだ。

5年が経ち、その椅子の1つの合皮の布がバリバリと割れてきてしまった。


沖縄は暑いので、われわれ家族はみな、ふだんはほとんど下着姿で過ごしている。すると、この椅子に座った時に、生の太モモが合皮の細かなヒビに挟まれて痛いのだ。
しかし、革布の張り替えには結構お金がかかると聞いていた。

そこで、DIYである。

※DIYとは・・・「DIY(ディー・アイ・ワイ)とは、専門業者ではない人が自身で何かを作ったり、修繕したりすること。英語のDo It Yourselfの略語で、「自身でやる」の意。」(Wikipediaより)

  *

 まず、合皮をハサミでカット。

中の黄色いスポンジが安っぽい。

 サンキで買ってきた布。   

ちょっぴり厚めのハギレが安売りしてあって、108cm×200cmで410円(税込)だった!
これも使う分だけカット(まだまだ余ったから、いつか別のことに使おうっと)。

 ドリルで取外した座板に巻く。

 タッカーはダイソーで300円?

タマはホームセンター(C)で。8mmの高さだったかな。
とにかく安上がりだが、タッカーそのものをホームセンターで購入すると、4倍くらい値が張るだろう。100円ショップはすごい。

DIYが得意でもない私でも、前回はじめて使った時から上手くできたので今回も自信満々。

 バチンバチンと留めまくる。 

裏側だから下手でも気にしない。

タマの食い込みが浅い場合は、カナヅチでトントンしておく。

 表面の張りを確かめながら。  




完成!












2016年8月24日水曜日

椅子も机も高くしよう

21世紀に入って16年目になるが、現代日本は本当に文明文化の国なのだろうか?・・・
などと、生活文化の不具合に感じることはままある。

たとえば、神奈川や茨城にいたときは、冬になるととんでもなく寒い室内で暮らしつつ、夏を待ちわびた。
関東の木造住宅はたいてい寒い。金持ちのおうち以外では。
囲炉裏があった昔は室内温度が適切だったという人もいるから、多分、われわれの文明は後退したのだ。

司馬遼太郎の講演CDを20年ぶりくらいにかけていたら、モンゴルのフェルトで作ったテント「パオ」が、冬でも夏でも極めて居心地がいい室温であると同時に、地球環境にまったく負荷をかけない生活文化なのだと言っていた。
(なお、司馬氏によれば、文明とは普遍的・合理的なもののことを指し、文化とは非合理なもののことを指すのだという。たとえば毎年年始に初詣に行くのは非合理なので、立派な文化なのだそうだ。)

一般的によくいわれるのは、台所のキッチン周りや脱衣所の蛇口などの高さは、現代人が使い続けると腰を痛めるということである。昔の日本人の平均身長に合わせて規格がつくられてあるままなのだ。背の高い夫婦の友人宅は、それを考慮して何もかもにグンと高さをもたせてあったが、それは個人の工夫であって一般文化ではない。
そういえば、私は毎日、シャワーの高さが足りないと感じている。身をかがめて生活することが多い。

なかでも、とりわけ私がずっと不服だった生活用具は、デスクチェアだ。
ニトリで買った常用しているデスクチェアには、ちゃんと高低を調節できるレバーが付いている。だがしかし、・・・最高の高さにしてもまだ高さが足りない。私の脚がとりわけ長いというわけでもないのだけれど、足裏が床に押し付けられ、常々、膝が折れて窮屈なのである。
約5~7センチほど高いといいのだが。

「じゃあ、座布団でも敷けば?」

と言われそうだが、この椅子を買うときに選んだ理由は、座席の心地よさと背もたれの加減だった。座布団を敷いてしまえば、いずれの価値も無に帰することになる。
しかもデスクチェアの座高を高くすると、こんどはパソコンデスクと筆記机が相対的に低くなってしまう。

日本の机周りの文明もしくは文化というものの品質や規格は、だいたい、こんな程度止まりなのである!
私は、根気強くこれらの問題を根本的に解決するべく考えた。
そして、――椅子も机も、ぜんぶ高くしてやろうと決めた。

こうしたわけで、数日前から準備を重ね、今日はひさしぶりにDIYを楽しんだ。
デスクチェア、筆記机、パソコンデスク、すべて高さをもたせる根気仕事である。暇ではないのだが・・・

  *

いちばん苦労したのは、デスクチェアの足の工夫だった。
そもそも最初は、座席の板底を嵩上げしようと考えたのだが、六角ボルトで主軸・背もたれ・肘かけと絡み合わせて組んである構造上、それが無理と分かった。あとは椅子の足元の工夫となるだろう。

同じようなことを考える人はままいるようで、ヤフー知恵袋も見たが、あまり参考にならなかった。工夫した解答をしている人もいたが、私のセンスに合わなかった。

※参考URL↓
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6784434.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12130278342

で、私はどうしたかというと、デスクチェアに付いている5つの車輪の付け根に高さをもたせることにした。
ということで、車輪の接続金具を買いに2つのホームセンターを訪れた。
が・・・そういうモノは売っていなかった。
車輪は車輪ごと売っており、その付け根の部品は非売なのである。インターネット上でも同じだった。

1週間ほど前、妻と子どもたちだけがお盆に帰省中であった。
うちの子どもが留守なのを知りながら、同じアパートに住む子供らがヒマすぎで退屈しのぎに遊びにきた。私も退屈しのぎにこの子供たちを連れ、ゴミ処理場へと足を運んだ。ときどき古いガラス工芸品を探しに出向くことがある。粗大ごみを出しにもそこへいく。

案の定、日曜日なので山のようにデスクチェアも積まれていた。
2日間で2市のみでこのゴミの量。人類は地球を滅ぼすだろうと想像できる。未来を担う子供たちには、こういう社会の裏面を見て、どうにかして対処して欲しい、などという淡い気持ちがどうしたって湧き起こる。

だが、・・・今回の私の目的はイスの足車輪であった。
ウハウハした手つきで宝の山を漁り、あっという間に5つをゲットした。連れてきた子供たちも頼んでいないのに2つほど取って渡してくれた。
私は気がつかないうちに、指に3箇所の切り傷を負っていた。
子供のひとりが、「知らないうちに怪我するのが、一番こわい」などとコメントした。

帰宅して金具のみを車輪から取り外そうとした。
外そうとしたのだが・・・これがどうしてか、どうしても外れないのだった。
引っ張れば取れるはずなのだが、外れない。断固として、外れない。

何か方法がないものかと、数日後に琉球ガラス村の加工部を訪れ、元上司たちに雑談をしに訪れたふりをして、おもむろに相談を持ちかけた。
仕事中にもかかわらず、2人の元上司が工具をもってしてトライしてくれたのだが、やはりダメだった。ノミで車輪を打破しても、バーナーであぶっても、どうあがいても取れなかった。
琉球ガラスにコールドワークを施した後、保温しておくためのオーブン(68℃)がある。とりあえずそこに放り込んでおけと元上司が言うので、そうしておいた。

また数日後に遊びに行った折、入れておいたイスの車輪をオーブンから取り出し、ニッパーでテコ入れした。
すると、「ぽんっ」と面白いほどあっけなく外れた。
「やった、やったー!」
と私が声を出して喜ぶと、元上司は、「あなたの人生は、こんなふうに上手くはいかないのにね」などと、下手なブラックジョークを言った。


で、その金具を、カットした木材に穴を開けて差し込む。
今日、ホームセンター(C)に行き、円柱形の棒材と2×4の角材とを買ってカットしてもらった。
しかし、ここの担当が、偉そうなくせに実にショボい男なのだ。
今回も、カット後に再度そこへ戻り、苦情を言って60円を返金させた。なにしろ、私が寸法・カット手順・カット回数にいたるまで丁寧に図を描いて説明したのにもかかわらず、テキトーにカットしてカット回数を増やし、頼んでいない部分まで切り落とし(!)、ボっていたのだ。最低である。
それを指摘したら、強気の文句調で言い訳をしてきた。
私は、多少怒った。
彼の言が合っていれば言い訳もいいのだが、誰がどうみても2箇所も間違っているのだから、彼自身もフテ腐れるしかなかった。性根も腐っているから、謝ることすらしない。じつは前回も同じようなことがあったので、私は今回は泣き寝入るのをやめたのだ。

ムカムカしつつ帰ろうとすると、同じ木材売り場に琉球ガラス村の偉い人がいたので、声をかけた。
この人は、道具でも機械でも何でも手作りしてしまう凄い人だ。
ニコニコしながら、「日曜大工かい?」と私のカット木材を覗き込む。
イスやテーブルを高くするのだと言うと、「新しいのを買ったほうが安上がりなんじゃないの?」と笑った。
私は笑ってごまかし、細かな説明は控えた。


切ってもらった木材は、寸法にズレはなかった。まぁ普通に、良いモノだった。
だがムシャクシャする出来事があったため、この木材を見ると切ない気分になる。

  *

木材に穴を開けるためのドリル刃は、2種類買ってあった。
はじめて電動(インパクト)ドライバーでドリルを使った。
DIYは、家内の方が得意で、ぱぱぱっと棚でも机でも作ってしまう。私は、ゆっくりゆっくり、おずおずと事を進める。


長男(5歳)が、ダイソーで買った球形の木材に、ついでに穴を開けてほしいと言った。
で、あまった木材にも穴をあけるよう頼んできた。
それに彼は、私の使い残したイス車輪の金具部品を差し込んで、・・・なんと手榴弾のオモチャをこしらえたのだった!


私は、大の武器ぎらいである。
長男が3歳の頃、家内が買ってきた幼児用のピストルの玩具をみて私は激怒し、長男も家内も大泣き、口論が昂じて離婚話まで持ち上がったことがあった。
家内にしてみれば、「いいじゃないの、おもちゃの鉄砲1つくらい」とのこと。
私からすれば、「3歳にピストル与えて、どんな大人にするつもりだ。しかもここは第二次大戦の激戦地だぞ」と言語道断の態度だった。
その数週間後に、アメリカで5歳の男の子が玩具の鉄砲(マイ・ファースト・ライフル)に実弾を込めて、2歳の妹を射殺してしまう事故があった。私は「それみろ」と言った。
後日、保育園で水鉄砲持参のプール遊びの日があった。長男はしょんぼりして帰ってきて、水鉄砲が竹筒の形だったのは自分と女の子1人だけだったと言っていた。

昨日、私は長男と、同じアパートの子供とを連れて、初めて那覇の「壺屋焼物博物館」へ行った。
博物館の展示品に、本物の陶器製の手榴弾があった。


長男はその陶製手榴弾が気になって、強く印象に残っていたらしい。で、それと同じものを作りたかったようなのだ。
どうみても手榴弾であるその手作り玩具について、私は「もしかして、手榴弾?」と訊く。
長男は首を振り、「まあるい、・・・オモチャ」と答えながら、ピンを抜いたり嵌めたりして、嬉しそうにいじっていた。

  *

ボンドで補強して完了。まぁ、DIYの得意でない私にしては、満足のいく出来栄えになった。
ただ、イス足の軸が垂直でないので、高くなったぶん揺らすとしなって、壊れそうな危うさがなくもない。
祈るような気持ちのある一方で、5つの車輪に65kgの体重だから1つに13kgの荷重・・・それくらいは耐えて欲しい気もする。

なお、写真手前の立ち作業用パソコンテーブルも、脚を長い木材に取り替えてある。
今回のニトリの常用デスクチェアの座席も、合皮が早々とハゲてしまったので、布を貼り付けてある。布は、タッカーと呼ばれる外側に向いた強力ホッチキスで打ち付けた。
おや、気づけばけっこうDIYしているじゃないか――と自分を讃えた、臭い汗かく夏日であった。





2016年8月15日月曜日

世間ではお盆

毎日、せっせせっせと片づけの日々である。
日本本土でもお盆だし、ここ沖縄では迎え盆(ウンケイ)が今日で送り盆(ウークイ)が明後日である。世間は忙しそうだ。

私の家系では、お盆の風習はとうに消えてしまった。
それでも子供の頃は、夏休みのただ中には、お盆に合わせて遠路をゆき父母の実家を順次訪れ、それぞれの田舎で従兄弟や親戚と集まって泊まるのは、それはそれは楽しいことだった。私にとっての日本の原風景の一部が、そういった思い出から育まれたのもまったく確かなことだ。

時は経ち、親戚関係にも色々とガタが来て、両祖父母とも亡くなり、私はといえば幼少期や少年期をへて、青年どころか中年へと歳を重ねた。家を離れ結婚をして子供ができ、遠い場所に引っ越した。お盆だからといって帰省する気もない。
(いちおう長男である)私は、墓さえも廃止することをもう15年も前から宣言してある。

ところで、墓がないこと自体はまったく寂しがるべきことではない。
すべての生命は地球から生まれ地球へと帰っていくのだから、墓がないのはごくごく自然なことなのだ。さらに言えば、生きている間だって物質的には固定された瞬間がないことについては、福岡伸一博士のベストセラー『生物と無生物のあいだ』を読むと一層よくわかることだろう。生物というのは砂漠の模様のように、形状がこの世にひととき残存するような類の存在であろう。このことは何という名前の生体現象だったかな・・・ど忘れしてしまったなぁ・・・・・・ああそうだ、「動的平衡(どうてきへいこう)」といったはずだ。

まさか、生活文化のすべてがナンセンスで無意味などと私はもちろん言わないし、そうは思っていない。
墓には墓の意味があり、価値があり、お盆にはお盆の重要な意味があり、それぞれの人間の人生に多大な影響がある。
しかし私が思うのは、墓がないことにも意味や価値があり、お盆がないことにもプラス・マイナスの人生への影響があろうということなのだ。

私の場合は、先祖はすべて私自身に集結していると考えている。あるいは、わが子に。
先祖とは、じいちゃんばあちゃんや田舎の墓石に刻まれた名前の人間のことのみではない。38億年分まるごと、地球の生命史の自分に繋がる樹形図のぜんぶを、自分の身体が背負っているイメージだ。これは科学的にいって、ほとんど正しい認識でもある。

儒教では先祖が偉いことになっている。先祖崇拝が儒教思想の軸としてあり、日本でも琉球でもその影響が強い。だから年寄りほど威張っている。政治家で偉そうなのもみんな年寄りだろう。若者から年金を絞りとり、原発事故で地球を汚しても、自分たちは良かった、後のことは知らん、勝手に頑張ってやってくれ、というのが大半の日本人のお年寄りのスタンスになっている。(金も文化も先代から受け継いだ以上にプラスして子供にバトンタッチしよう、なんていう親が果たしてどれくらい存在するのだろうか?)

しかし私が自分の頭で考えると、価値観が逆なのだ。子供ほど偉いし尊いはずである。
もちろん親がいなければ子は存在しないのだけれど、子がいなければそもそも親ではない。
子孫ほど偉いことは、生物学的にいっても間違いない。生命の原理として必ずそうなっている。過去よりも未来が大事で、未来の主人公は常に若者なのである。

この当然の原理を、風習文化をもって倒置してあるのには、もちろんそれ相応の理由はある。
社会的にみれば、「先取権(さきどりけん)」が効いている。
技能面からいえば、「経験値」も年寄りが優位である。
生物的にいっても「先行優位」がある。先にその場に住んでいる者の方がテリトリーを主張しやすい。

それをひっくり返すには闘争しかないのだ。
動植物をみれば、常に競争原理が働いている。また、人間の歴史を見返せば、下克上という形もあるし、国土拡大・先住民虐殺という形もあったし、革命という形もあった。

それではたまらぬとばかりに、権力をもった年寄りたちは、年功序列をルールに据える。
家庭にもピラミッドを作る。子供を親のいいなりにしようとする。さらに最下位に嫁を置いて、こき使いながら阻害する。日本の民衆文化のれっきとした暗黒面だ。
ほんとうは、子供は穏やかに年功序列を打ち破るべきである。嫁はそんな圧政の敷かれた家ならば即刻出るべきだ。
なぜなら、必ずしも年寄りが社会の安定を保証するということはいえないからである。先の戦争で二十歳そこそこの未来ある若者らを特攻にしたてたのは、大して先のない年寄りたちだった。

ではといって、年少優位も行き過ぎれば、社会は姥捨て山OKの方向へいき、人道的価値観が破綻するであろう。
だからこそ孔子だって、老いては子に従えという指針を設定した。しかし、風習や伝統や原理を大事にする人々というのは、大概、都合の悪いところは自分の都合で削ってしまうものなのだ。

・・・こういうことを、ご先祖様がふだん離れ離れの人々を再会させてくれる「お盆」の風習をもつ方々は、とくに考えてみる機会が増えるだろう。いろいろな人の人生模様をみることは、とても勉強になるから面白いはずだ。


今年の終戦記念日は、私にとっては片づけと生活家事でほぼ終わった。
この大片づけを終えて、研究と読書にいそしもうという心積もりだ。





2016年8月8日月曜日

天皇陛下の「お言葉」をきいて

昨日は子どもの友人家族とでビーチパーティーがあった。
雨ときどき曇りではあったが、有意義にすごせた。こういうレジャーや交流はわが家族は得意ではないので、重い腰を上げて提案に乗らねば、あっというまに子どもが大きくなってしまうだろう。つくづく友人とはありがたいものである。

ただ、先月その同じバーベキュー場でビーチパーティーをしていた男性が、トイレ前の広場で雷に直撃されて心肺停止になった事故ニュースがあったので、ちょいちょい気になった。雷の鳴るときもあったし、暗雲も雨もあったので、トイレに行くときは空が怖かった。


今朝、雷が2度鳴った。
ブログにも書いたとおり、先月はわがアパートにも雷が落ち、共同アンテナを壊していった。その2、3週間前には友人宅に直撃していろいろな家電を破壊した。今年はおかしい。こんな雷ばかりの年などあったろうか?

で、今朝の雷はななんと、わがアパートの向かいの電信柱に落ちたらしい。
家の半分の電気がつかなくなったが、やがてわーわーと近所の人が表に出てきて、停電だ、うちも停電だと口々に言うのが聞こえた。やがてわが家もすべて電気が切れた。

沖縄電力のお兄さんたちがやってきて電信柱に登って数十分後、電気は復旧した。もしかすると私が不動産屋の時間外受付に連絡したことで沖電が来たのかもしれなかった(行動派の区長さんがあとで「誰が電話したかな?」と不思議がっていた)。

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昨日のビーチパーティーの疲れがまだ残っており、今日は作業や家事がぼちぼちの運びだった。

しかし、「天皇陛下の(生前退位にまつわる)お言葉」のビデオメッセージが8月8日午後3時から放送されるということが数日前から喧伝されていたので、なかば楽しみにしてスーパーの買い物から戻り、国民の一人としてひとつ聞いてやろうじゃないか、などと軽口を言いながらテレビの前に座った。


10分ほどの天皇の言葉を聞いて、しばらく唸った。
(大した天皇だな)と思った。なかなか珍しいという意味でも興味深いビデオだった。

天皇陛下が「個人としての」思いを語るという。
ここでちょっとハッとする。
憲法上、国政にかんする私見を述べることが封じられている天皇だが、だからといって1人の人間として、一個人として、何も思わないはずがない。人間は個人として生き、(個人が統合されているかどうかはまた別の問題だが)考えながら生きている。
発言するべきは、発言しなければならない。

国民・国政・皇室を熟考して、現状を変えてよりよくしようという強い意志を述べた。国政に関わる権限がないことにあえて触れて、真意がまっすぐ伝わる表現方法をとっている。
いろいろな面で論理的で、誠実で真摯だった。

こんなにまっすぐ放たれたメッセージを聞いたら、しごく真っ当なこの意見に反対する国民はほとんどいないだろう。たとえば私の胸にはどこかに皇室制度反対の意思があるのだが、そんな私でも(なるほど、そのとおりになればいいのに)と賛同の気持ちが湧いた。

普段はどんなことを考えているのかよく見えないのが皇室の方々だが、こうまで明確に発言があれば、立場・仕事・思い・願い・配慮・方策、いずれをとっても熟慮が行き届いており、非常にちゃんとした人だと感じる。
天皇の「お言葉」に、べつに私は感動はしなかった。
しかし十分に感心はした。
やはり普通の人ではない。していることも、一般人にできることではない。

とくに、このように発言するリーダーシップには驚嘆した。

私の周囲を見渡すと、親にも祖先にも親戚にも、たぶん友人知人の親戚を見回しても、これだけ周囲全体や家族の将来をおもんばかれるような人はまずいない。
一般社会ではほとんどの場合、立場ある人々さえもが十分なリーダーシップに欠けている。
周囲や残される人々に対する十分な配慮や思いやりなど、まずほぼないと言っていい。見通し、方策、何もない。当然、発言もなければ行動もない。
多少の思いやり、多少の配慮、多少の保守思想、多少の希望。それが親戚関係とか友人関係、会社関係の良い面のすべてである。

自分の死後のことについては、「なるようになるでしょう」「あとは、残った人たちが好きにやればいい」という放任主義が大多数だ。
「こうこうしてくれ」と遺言に残す積極的な人もいるが、それらはほぼ自分中心での遺言だ。墓選びも、墓の管理任せもそうだろう。死んでなお自分自分。よくて一族への私利。それが世間一般なのである。

そして愛はというと、・・・金にのみ託される。――生命保険。遺産。・・・虚しいかぎりだ。

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NHKではニュースキャスターや専門家たちが解説をし感想を述べ、街頭で人々へのインタビューや被災地・記念館などで決められた人にインタビューがなされていた。
それを見て、私はちょっとだけ唖然とする。
多くの年配の人が、インタビュアーの質問に適切に答えられていない。
「天皇のお言葉をきいて、どう思いましたか?」と聞かれているのに、天皇に会った時の思い出などを長々と話しはじめる。国語能力に欠けている。街頭で若者にインタビューして返ってくる言葉の方が、よっぽどまともであった。
それと比べるのは可哀想だが、やはりテレビに出ている専門家は、おのおので的確な解説をする。

安倍首相も今回は、ちゃんと対応せざるをえないといった様子で、ある程度きちんとメディアに発言していた。
憲法改正を暗に反対するタイミングだとも言われる今回の「お言葉」だが、本当のところ私にわかるはずもない。が、そうだといいな、とも多少思う。
国民に寄り添い、国民に耳を傾け、祈りつづけた象徴天皇が、憲法改正・戦争法案賛成なハズもないのだから。

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・・・それにしても、「お気持ち」、「お言葉」、「〇〇さま」ほか、メディア上の最敬語は、どうにかならないのだろうか? 皇室にかんするニュースで使われる敬語は、私には奇妙に聞こえていつまでも感性に馴染まない。やもすれば冗談で言っているようにも聞こえる。
新聞もテレビもネットニュースも、おべんちゃらを振りまいているようで、日本語表現自体が媚びた感じがして嫌なくすぐったさに包まれる。
最敬語は、天皇や皇族に対して直接使えばいい言葉ではないのか?
第三者にそういう語り方をするから、おべっかを強制しているようで可笑しくなるのだ。

少なくとも、天皇ご自身の語りには、そういう奇妙な感じは全くない。
今日のはとくに、かなりの名スピーチだった。(天皇制保守の志が含まれていたとしても。)


↓毎日新聞より「お言葉」について
http://mainichi.jp/articles/20160808/k00/00e/040/297000c

↓毎日新聞より「お言葉」の海外反応
http://mainichi.jp/articles/20160809/k00/00m/030/068000c

↓Yahoo!ニュース(翌日)記事:「象徴天皇としての天皇」を体現―陛下の「完璧主義」と歩み
http://news.yahoo.co.jp/feature/283





2016年8月6日土曜日

貧乏暇なし

なんやかや、なんやかやと非常に忙しい。
そのいっぽうで、子どもたちと遊んだり近所の人や友人と井戸端会議をしたりという日々を送っている。
と同時に、妙な鼻風邪をひきこんで鼻声と粘着鼻水が煩わしい。体調も気分も作業効率も下がりっぱなしである。
やるべきことはまだまだまだまだ他にもあるのだが、ほとんどを中途にしたまま過ごしてしまっている。
貧乏暇なしとはまさに自分のことだ。

今日は久しぶりに暗雲の覆う曇り日で、小風も吹いていた。
めずらしく涼しめだ。(台風5号が接近中の関東では38度とか何とかニュースで言っていた)
風は気持ちいいし散歩にももってこい、ちょうどこそへお隣の奥さんが子どもと訪ねてくれて、私も急いで身支度をして、長男を連れていっしょに近所の公園へ行き、子どもらをブランコやボールで遊ばせた。
ブランコの下に蝉の死骸があって子どもが騒ぐので、羽を持ってどかしてやると、中から小蟻が慌ただしく出てきて一列に並んで退去を始めた。その素早さと見事さに親も子も感嘆の声を挙げた。長男が「こども園のこどもたちより並ぶのがじょうずだよ」と言っていた。

突如としてサーッと斜めの白雨が降り注いだので、私たちは四阿に避難した。
風も吹くので多少霧雨が振りかかる。
なかなかやまない。
やがて3歳の女の子と5歳のうちの長男は雨の下に出て水たまりの中を歩きはじめる。頭から濡れて喜んでいた。
隣の奥さんは1歳の子を抱きながら笑顔で子どもと接したり、私と他愛のない話を交わす。長らくそうしていたあと、私は妻に電話して皆を迎えに来てもらった。帰ると同じアパートに住む子どもが駐車場で2人待っていたので合流する。隣の奥さんは1歳の子と帰宅し、妻は9ヶ月の子を連れて買い物に出かけた。残りの子どもたちを私は散らかった部屋に上げて遊ばせながら、自分はその側で夕方遅くまで古書の整理のつづきを延々とやっていた。

じつはこの数日、アパートの管理会社の人があまりに不誠実で多々不満が生じ、心がササクレ立って仕方がない。
他方では、地域近所の人々や子どもがらみの友人がほんとうに親切で、しばしば交流がある。感じの良い人ぞろいなので非常にありがたいと思う。

運の良いこと悪いこと、多忙と余裕のないまぜだ。この生活がしばらく続くことだろう。
けれどずっと続くことはない。
子どもはすぐに大きくなるし、私も妻も、そして誰もが歳を取る。環境も変わるだろう。興味も仕事も変わるだろう。
何もかもが移りゆく、そういう人生のことを、調子の悪い時には特にじっくりと考えてしまう。
そしてやがて、調子の悪い時の「良さ」はこのことにこそあるとメタ的に考えたりもする。