2015年3月1日日曜日

表現のコントロールは難しい


私自身はかなりWeb上の表現を自覚的にコントロールしているつもりなのだけれど、それがねらい通りうまくいっているかというと、まったくもってなかなか難しい。自己評価はまだまだ低い。

たとえばこの「手植えノートMemo」ブログは、読者のたのしさ度外視で、お固い内容でも有意味なものを書こうという意図の下、一般一市民としての私自身の思索を開示する試みである。
そこそこ有意味だと思うけれど、しかし肩に力が入りすぎているので、固すぎる。
自分でさえ、読み返してたのしさに欠け、読みぐるしいのである。
これはお読みいただければ分かることだろう。

あるいは「デカルトの重箱」ブログは、デカルトについて知識人が書いたものに噛みつく、という反骨精神全開なコンセプトで書いている。
自ずと、表現にいつも刺々しさがある厳しい内容となる。
いや、それでいいのだ。いいのだが、読み続けると何だかイライラ・カリカリしている(心理学でいうAタイプの)人が書いているような文章で、読んで心地よいものではない。

じつは他にも、公表するためでなく自分の練習用にも生活表現としてのブログを持っている。
心にうつりゆくよしなし事を書き綴るだけだから、そちらも別に面白いものではない。

私の友人・知人は、私のブログをほとんど読まない。かわりに彼らは、私の妻のブログを読んで、私の昨今の動向をぼんやりと把握しているらしい。
妻のブログは写真が効果的に用いられ、文章はライトでビビッドに読者の感性に届く。面白いと、、すこぶる評判が良い。


Webでの表現というのは、一にも二にも目的的であると思う。
だから、楽しく感じさせたいなら楽しく書き、情報を的確に伝えたいなら伝わるように書き、あちらを喧伝してこちらを隠すならそうなるように、効果的に表現すべきである。
私の心には、ふだんの生き方・あり方が「面白おかしく、楽しく有意味に、無理せず、純心と誠意をもって云々」という指針があって、大体そのように生活しているのだけれど、ブログでは「面白くなくても有意味に」という指針をもっていて、それがそのまま形になってしまっている。

だから、実際のじぶんと、ブログ上の文章表現とのギャップが大きい。
これは本意ではない。

「デカルトの重箱」噛みつきブログだって、2chなどで見られるような吐き捨ての嫌味は避けている。
けれど嫌味な感じは残る。
批判のオンパレードを書いているのだから仕方がないか。

もしそれを改めるとすれば、批判を書いてもさほど嫌味でないように、あるいは文章をもっと楽しく、などとコンセプトを変える必要がある。
あたりまえのことを私は今書いているかもしれない。
やり方がそこそこ正しければ、コンセプトどおりに事は進むものなのだから。
だから逆に、コンセプトに見落としがあれば、見落とされたままそれは現実となるのである。
常日頃からフィードバックは欠かせない。

図書でも、よくよく(なぜ印象をフィードバックしないのか?)というものがある。
「人を不快にさせない礼儀作法」を教示する礼儀作法本で、嫌味な姑のごとく一般読者を注意し続けるような文体であることは、よく見かける。読者はどこか不快になるが、これはフィードバックができていないのである。
同様に、CD付の英語学習本で、CDの声がおっかない先生で楽しくなさそうに読んでいたりするものも多い。できの悪い生徒はすぐに離れていく。
爽やかな印象をつくるために、人物やタイトルの後ろに雲浮かぶ美空を合成した本も見かける。気持ちは分かるが、それをみると、未知なる新興宗教的の案内にも見えるから、作り手は注意されたい。爽やかな空の写真は、人工創作物と合成すると、直接的すぎて胡散臭いのである。
きわめつけは、「レイアウト本」だ。本をよりよく作るためのレイアウト教示本そのもののレイアウトがイマイチだったり、見目ダサかったり、字が小さすぎて読みにくかったりということがある。文字が小さいとスタイリッシュに見えるけれど、難読になるのだ。読みにくかったらレイアウトの意味がない。

コンセプトをフィードバックして推敲することは、このように超・重要かつ有用である。
コンセプトを実現できるような技量も自分につけることも、重要ポイントだろう。Web表現に限った話ではない。コンセプトの推敲や技量獲得は、表現するハードルを上げるとともに、頑張りがいを出すのに有効だし、なによりも成果が得られるというものだ。



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