2015年2月21日土曜日

プロフィール主張の是非について


今回のブログで問いたいのは、「自己のプロフィール」をどう世間に開示するか、という問題である。
「アイデンティティ」についてさらっと考えて、「自己紹介」についてべたっと考えてから、最後の方で、Web上ではどういう「自己プロフィール」のあり方がよいのかをばっちり探ってみたい。


〈「アイデンティティ」について:〉

先日、保育園に通う息子の面談があって、ペンとメモ帳を手にぶらぶらと歩いて登園した。
関東とちがい、すでに沖縄は春の陽気である。
子どもたちは、大きくて真っ黒なカーテンの向こうでお昼寝中で、私と先生は廊下に置かれた小さな椅子に座って対面した。

いろいろと小さな悩みを打ち明けたり相談したのだが、私自身が驚いたのは、わが息子はウチでのワガママっぷり自己主張の強さを、保育園ではまったく発揮せず、完全にイイ子で自己主張のないキャラクターに徹しているという事実だった。

先生は、「それでいいんですよ」言った。我慢と発散のバランスが大事だと言ってくれる。
私 「しかし、かなり二面性を持っているんですね」
先生「お父さん、われわれ大人だって、会社とウチとで分けているじゃないですか。社会性ですよ」
私 「まぁそうですけれど、その二面性の差を、できるだけ小さくしていくのが理想的ですよね」
先生「そうでしょうか?」

ここからは主義、ポリシーの話になるから答えは出るはずもないのだが、私としては、朱子学的な大義名分論(君は君たり、臣は臣たり)よりも、自由主義が性に合っている。そのせいで、会社でも私はまま「言いたい放題なヤツだ」「空気が読めていない」などと呆れられる。
しかし、私自身としてはまだまだ内心・家庭・職場の間のギャップは狭める余地がある。もちろん、誰に対しても同じ顔つきの仮面を被るのではなくて、どこにいても心は裸族でありたいわけである。

まぁ、息子のことは別にいい。
私も妻も学校で自己主張の強いほうではなかったし、それでいて好みはハッキリしていたから、当然、子どももそういうことになるのだろう。
ポリシーや人格は、結局のところ彼が自分で構築していくものだ。

青年期には多くの人がアイデンティティ(自己同一性)の確立に悩む。別々の場所で別々のキャラクターを演じる自身が、一個の人間であるということの整合性を模索する。

近年では、作家の平野啓一郎氏が「分人」という考え方を模索し、他人それぞれに対し別の顔を無数に持つことが人間の本性であるということで、「個人」という普通の考え方に異論を唱えていておもしろい。
これは大義名分論と平等主義との弁証法的な成果のような、あるいはもっと新しいアプローチのようにも思えるのだけれど、ちょっと進むと、まだ単発アイディアの域を出ていないとも感じる。


〈「自己紹介」について:〉

個人的には子どもの頃、自己紹介がとても嫌だった。
話が苦手ではないはずの私だったが、中学1年の時、ある会合で自己紹介ができずに完全に押し黙ってしまったことがある。大人になった今もその時の苦痛を薄っすら覚えている。

かと思えば、世の中にはもの凄く流暢に堂々と自己紹介ができる人もいる。
数年前、ある単発的な会合で見た20歳の女性は、才能に満ちていた。顔も着ている服も美しく、瞳は輝き、高学歴で社会活動も活発、夢も進路も考え方も話法も発言も完成されており、まるでドラマのヒロインがテレビから出てきてしまったのかと思うくらいだった。その人の自己紹介が、やはり凄かったのだ。完璧というのはこういうことかと、妻と私は帰りの車内で思い出しながら唸ってしまった。

しかし、完璧な人物を見ると、私のような凡人はどうも疑いの念を持ち、批判を試みたくなる。嫉妬はあるかもしれないが、それよりも、自分は何をその人から学べて、何を学べないのか、探るためなのである。

まず、全否定を含めた懐疑を試みる。
――そもそも「完璧な自己紹介」というもの自体が、いいのか、悪いのか。必要なものなのか否か。

自己紹介は、即物的なものではない。対他者的な、社会的な構造のなかでの戦略的アプローチの形式である。
自己紹介には、まず内容の事実があり、目的があり、策略があり、取捨選択や見せ方があり、そして成果がある。
(われわれの容姿や身だしなみ、礼儀作法や行動内容など、すべてがこれと同じ要素を含んでいる。髪をムースでガチガチに固めてビシッとしたスーツできめても、客や社員に毛嫌いされていたら、ほとんどムダということだ。)

ということは、もし強烈な才能を印象づけたいのなら「完璧な自己紹介」は成功である。また、人間関係を新たに築くきっかけにしたいのなら、相手を怖じけさせることもあるから、50点になるかもしれない。
いちばん上手いのは、少し“抜く”ことかもしれない。完璧に掃き清められたお寺の境内を掃除するよう命じられ、木立の幹を揺すって自然な落ち葉の散る趣をつくった小僧の話は有名だ。

では、われわれ凡人の大半が一般に述べるような、ありきたりで印象に残らない自己紹介はどうか。
対他者的に何の成果も残さない点では、失敗に近い。30点くらいだろうか。0点の場合もあろう。
しかし、人間は「不快な印象を残さない」ままその場にいるだけで成功、ということがある。無難に目立たずに存在することを目指すのなら、凡庸な自己紹介も成功だろう。

いちばん良いのは、いわゆる「上手だったね」「面白かったね」「タメになったね」という好印象を軽く残す自己紹介か。
まだ知り合うか合わないかの場面では、そういう自己紹介が求められているし、そういう自己紹介をしようと多くの人があれこれ考えている。
自己紹介が社会的構造のなかの目的的な行為である以上、自己紹介する側だけでなく、聞く側についても同じことがいえる。

つまり自己紹介とは、「何か面白い話はないか? 有用な情報はないか?」と期待している人々に、あるいは「有害じゃないことを」と望む人々に、話者それぞれがその期待に応えつつしかも目的的・戦略的に自己をアプローチして成果を期待するという、極めて計算高い行為の応酬劇なのだ!

それゆえ、「まず、自己紹介からはじめましょうか」と進行役の人が言い出すと、幾重にも意図的なものがただよう不自然な居心地の悪さを、われわれの無意識が多かれ少なかれ直感する。
(それにそもそも我々の多くは、自分自身のことなど大して分かっちゃいないのだ。それをアピールしろというのは、ある種の無理難題だろう。)

逆に、目的も活用も期待しない偶然の出会いに自己紹介はいらない。
微笑みと純心だけを胸に、あとは聞きたいことを尋ねあえばよい。


〈Web上の「自己プロフィール」のあり方について:〉

ところが世間には、他人から聞かれもしないのに自らプロフィールを掲げている場面がある。
Web上など、まさに不特定多数の相手に向かって発信している。他にも本のカバーの見返し、雑誌記事の端など。
テレビでもコメンテーターのプロフィールがテロップで流れることがあるが、これはもちろん、「これを言っている人間は、どんな人なの?」と視聴者・読者が知りたがっていることを想定してのことである。講演会などでは自己紹介ではなく、司会が講演者のことを紹介するが、それと同じだ。

けれど、自分で書いた記事や本やWeb記事には、自己紹介することになるのが普通である。
(ときどき、著者のプロフィールに著者の業績を賛美・評価するのが含まれているのをみると、たとえそれを担当しのが編集者だとしても、著者が自賛しているように見えて白々しく感じることがある。尊敬語を自身に使っているのと同じ印象になる。)

で、そうした「不特定多数の人へのプロフィール」をどう表現するか、というのが今回のブログの本題なのである。

Web上のことを考えてみる。
プロフィールに行き着くには、3パターンがある。

1) 記事から
2) 人物から
3) 場から 

1)は、記事をみつけて読み、(これはどんな人が書いたのかな?)とプロフィールを見るばあい。
2)は、(この人の書いたのを読もう)と探して読み、そこにあるプロフィールを再確認するばあい。
3)は、SNSのプロフィールのように、記事も人もとばしていきなりプロフィールから見るばあい。

さいしょに取り上げたいのは、3)についてだ。
3)は、さっきのリアルな世界での「自己紹介」に似ているが、もっと唐突で、違和感がある。まったく未知で会ったこともない一般人のプロフィールをわんさか見せつけられても、ほぼジャンク情報でしかない。
ただし、たとえば時間をかけてその人の書いた記事を読み、ネット上でやりとりをしたりすれば、その長いプロフィールも徐々にジャンクではなくなり、人物をイメージするための材料となるだろう。

こういう時、理想的なのは「簡易プロフィール」と「詳細プロフィール」の二段階を踏むことである。
細かくディープなプロフィールは、「もっと知りたい!」という人にだけ開示するのがよい。さいしょから細かいと、(自意識過剰な人だな)と思われる。簡単なプロフィールだけでは、(どんな人かよく分からなかった)で終わる。

これが1)の場合だと、もっと匙加減が難しい。
短いプロフィールが「淡白で不親切」と思われるばあいと、「シンプルで清々しい」と思われる場合とある。
長いプロフィールが「クドくてアピール過剰!」と思われる場合と、「懇切丁寧で分かりやすい」と思われる場合がある。
それこそTPO・場面場面ばかりでなく、読者によりけり・感性如何だったりするのだ。

では2)の場合はどうか。
ある程度その人物を知っていて興味を持ち、さらにもっとその人のことを知りたいと思うからプロフィールを読むわけだから、長いほうがよいに決まっている。


…と、ここまで考察してきたが、ここまでは読者目線を意識しての考察であり、著者自身の都合からも考えておかなければならない。なにしろ、不特定多数の人間に向けて書くのだから。

1) 誰を読者に想定し、何を目的に書くのか?
2) 何を強調して伝え、何を隠したいか?
3) プライベートをどこまで開示するか?

いちばん注意すべきは、3)のプライベートをどこまで開示するか、である。
隠しすぎると内容がツマらなくなる。が、書きすぎれば危険である。世の中、どんな人間がいるか分からない。
匙加減。一にも二にも匙加減である。
センスが問われるし、答えは結局、本人の中で作るしかない。

1)と2)は、戦略と内容が問題になる。
商売ごとならイイトコばかり書いてもいいが、それだと当然、表面的でビジネスライクで押しの強いものになる。
自身をさらけ出しすぎると、不都合も出てくるだろう。それを留意しつつ、他方では覚悟するべきである。言葉はもとより諸刃のヤイバだ。

私が個人的に感じるのは、SNS(フェイスブックやミクシィなど)では一時期、多くの人が情報を開示しすぎていた。アメリカの研究者がそこから個人情報を自動抽出し、街中でスマホのカメラをかざすと、リアルタイムで通りを歩く人間の個人情報が掲示されるというソフトを紹介しているTV番組があったのを覚えている。

そういう一般市民が自己顕示過多なのに対して、逆に著名人や研究者など、世の中に積極的にアプローチしてしかるべき人々がほとんどWeb上で情報を公開していない場合も多くみられる。
なぜ、著名人があえて自分を隠すのか? 研究者が自分の研究成果を積極的に世間に紹介しないのか?
私が理解に苦しむのはそこだ。



以下、具体的にWeb上のプロフィールの例を挙げてリンクを貼ってみたい。
いや実のところ私は特にアニメに詳しいわけではないが、アニメ映画分野で自分が多く観た作品の監督について例示してみました。

・アニメーション監督の押井守氏のプロフィール
http://www.oshiimamoru.com/profile/profile.htm
通常版と詳細版に分かれている! さすがだ。通常版が長めだが、興味のある人間だけが訪れるサイトだから良いと思われる。詳細版が自分史的なのが面白い。

・アニメーション監督の大友克洋氏のプロフィール
http://www.b-ch.com/contents/ohtomo_sp/locus.html
ご自身でつくられたプロフィールではなさそうだが、作品でたどる時系列のカッコいいプロフィールで、最後に別枠で短い一般的なプロフィールが示してある。人物よりも成果としての作品をごらん、という感じだ。

・アニメーション監督の今敏氏のプロフィール
http://konstone.s-kon.net/modules/works/index.php?content_id=1
主として作品でたどるシンプルな時系列プロフィール。プロフィールはひとつだけで、履歴書のように淡白ではあるが、最後に自己プロフィールについての短い考察があって彼のキャラクターの一端が伺える。

・アニメーション監督の宮﨑駿氏のプロフィール
・アニメーション監督の高畑勲氏のプロフィール
言わずと知れたスタジオジブリの2巨匠は、その公式ウェブサイトにさえプロフィールが見当たらない。色んな所に載っているから言わずと知れてるだろう、そもそもプロフィールなんか書きたくないよ、と言わんばかりだ。