2015年10月28日水曜日

2015年10月21日、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と私

2015年10月21日は、かの映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』で設定された未来の一日だということで、ニュースにもなった。
1985年公開の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、当時アメリカでフューチャー現象と呼ばれるくらいブームを巻き起こし、日本でもとくにPART2(1989年)は大ヒットを記録した。
今回も、アメリカでは10月21日の劇中のその時間にピタリとあうように映画を流しはじめるイベントが、いくつもの映画館であったそうだ。

私は「PART2」が公開された1989年当時、小学6年生だった。かつて綾瀬市の子供にとっては遠かった藤沢市のオデオン座まで、親友と電車に乗って観に行ったのを覚えている。とても面白かったが、未来と現在・過去を行き来する複雑な話は難しく感じた。その難しさがまた嬉しかった。友人は、映画タイトルからしてうまく言えずにいた。


そして現実に未来になった、先日10月21日。
ネット上のニュースには、劇中に描かれた未来技術がけっこう実現しているとか、まだ車は空を飛ばないとかいうことが載っていた。
また当日のテレビニュースでは、トヨタの水素自動車「ミライ」が米国での発売開始をその日にしたり、映画とマッチしたCMをつくったり、ガルウィングタイプの車も1台造ったりして、話題の日に便乗する宣伝戦略を繰り広げたとあった。お台場のフジテレビ前にはタイムマシンのデロリアンが来て、野球選手が乗ったりするイベントがあったようだ。

ここ沖縄では、あまり湧いていない。(レンタル店のバック・トゥ・ザ・フューチャー特設コーナーのDVDも、当日でさえ全作余っていた!)
デロリアンがライカムの映画館に来ていたらしいが、それは9月中旬のことである。気が付かなかった。きっと東京に未来当日出現するために、早めに来て、すぐに行ってしまったのだろう。

だが、私のなかではかなり沸いていた。本当にあの未来になってしまったのだから。
数日前に1・2・3と連作全部のDVDを借りてきておいて、当日にあわせて妻と息子と見ようと計画した。
大人から子供まで心から楽しめる映画が、いったいどれほどあるだろうか?
この映画はその稀有な存在である。多少コミカルすぎるが、何度見ても楽しい。古めかしい特撮が古めいて見えない。

私は時間まで劇中と合わせて映画を見るほどミーハーではないものの、アンチミーハーの堅物だった少年時代に比べると、その反動のためか、中年の今は随分だらしのないミーハーになってしまっている。
この日、もうすぐ生まれる子供のために、車に貼る「BABY IN THE CAR」ステッカーを買った。「BACK TO THE FUTURE」のロゴのアレンジ版だ。
帰って、「1000円もしちゃったけど、面白いだろう?」と私は得意げに妻に見せた。

ところが・・・このように、3日くらい気持ちがバック・トゥ・ザ・フューチャー漬けになっていた私に、妊婦の妻はブチ切れてしまった。

「映画とか遊ぶことばっかり考えててっ!」

久しぶりに怒られた。
なにも10月21日未来当日に夫婦喧嘩をおこすことはないのに、と私はむかっ腹が立ち、また心身ともにしょげて、夜な夜な車で家を出た。
夜の運転は、どこかデロリアンに乗っているように感じられた。
考えてみれば、主人公のガールフレンドは、未来のみじめな家庭生活を垣間見て、失神してしまったではないか。
息子や娘は不出来だったし、主人公は会社を解雇されてしまい、パッとしない人生を寂しく歩んでいた。便利になった生活様式が、幸せに結びついておらず、奇怪なくらい無駄である。

現実の私の2015年10月21日は、・・・変な意味で、どこか劇中とマッチしている。私はひとり苦笑した。
本屋に行き、30thアニバーサリー本『バック・トゥ・ザ・フューチャー完全大図鑑』をうさばらしに買った。
それさえも、まるで「PART2」の悪役が手にした未来の本(スポーツ年鑑)とダブって見えた。
我ながらこりゃ重症だ、と反省しながら家に帰ったのだった。


それから、気を取り直して、家族3人で「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3」を見た。
(「PART2」は、ワガママ息子の要望に圧されて一日前に見てしまっていた。)
「PART3」も、皆様御存知でも改めて言わせてもらうが、非常に面白かった。
妻が完全に機嫌をなおしたほど、楽しい映画だった。
4歳の息子は、ミニカーを飛ばす真似をしながら部屋中を歩き回っていた。
見終えてすぐ、しとしとと雨が降りだした。まさに「PART2」のラストのようだった。

こうして、2015年10月21日――私は映画のちからを見せつけられて、心嬉しい気分で床についた。


***

布団の中で、1点だけこの映画に難癖をつけていた。
1885年にタイムスリップした主人公や博士は、西部の酒場でショットグラスでウイスキーを飲んだ。
だが、ショットグラスがアメリカにおいて一般に広まるのは1933年、禁酒法解禁の前後のことである。1940年代以前のショットグラスは極めて稀といわれる。西部劇の酒場で使われるグラスは、ふつうはもっと広口で大きめグラスのはずだ(前回のブログを読んで欲しい。)
・・・と、未来人から時代考証にそっとひと撃ち(ショット)しておく。


2015年9月30日水曜日

沖縄のフェデラル・ショットグラス


先日、ある骨董屋さんで、面白いものを譲ってもらった。
しかしこの品物に、今夜何時間もの間、私の心はずっと煩わされてしまったのだった。

それは7つの小さなショットグラスだった。
5センチ程の高さの小さなグラスが、1個2,000円。
博識な店主さんに「これは安いよ!」と言われ、そのモノにまつわる逸話に魅了され、思い切って買ってみた。

「出どころも明確。那覇市内の商店を営む人の持ち物で、戦争の時に庭に埋めて被災を逃れた品物だよ」

沖縄にあったf戦前のガラス製品は、1944年の10・10空襲とその後の地上戦で、ほぼ失われたとされている。我々が戦前の沖縄ガラスを手にできるのは、ガマ(自然洞穴)から出てくるか、もしくはチリ捨て場から掘られたか、といったところなのだ。
それが、空襲に備えて庭に埋めた品物が出てきたとしたら、それは・・・紛れもなくレアな沖縄の遺産だ。

ショットグラスは表面に美しく細やかな揺らぎをたたえ、爪で弾くとチンと鳴った。
「この特徴は、紛れもなく、大正時代の物!」
と、そう店主は断言した。


さてこの高いのか安いのか分からない品物を持ち帰り、底面のロゴを眺めていた。
小さくてよく見えない。
目を凝らし、光にかざしてやっと見えてきたのが、盾のマークに反転した「F」の文字だった。
ネットで調べると、出てきた、出てきた!
なんと、フェデラル社(フェデラル ガラス カンパニー)のロゴではないか。
フェデラル社は1900年~1979年まで存在した、アメリカ国オハイオ州の大ガラス食器会社だ。1950~70年代頃の白いレトロなミルクガラスのマグカップやお皿で有名だ(そうしたミルクガラス食器では、ファイヤーキングなどいくつか有名なものがある)。

そこから、私はドライアイも何のその、何時間もパソコンとにらめっこすることとなった。
英語のサイトをGoogle翻訳させつつ自分でもざっと訳しつつ、フェデラル社と、ショットグラスについて調べた。

ショットグラスの発明は18世紀後半のドイツだが、本格的にアメリカで今の形となって使用され始めたのが、1933年(禁酒法廃止)前後なのだという。その頃以前のショットグラスは、もっと薄手だそうだ。
しかも、アメリカは1929年から世界を覆った大恐慌からなかなか立ち直れず、1941年まで恐慌が続いたため、「1940年代より前のショットグラスは、ほとんど見つからない」との情報だ。

となると、私が手に持っているフェデラル社のショットグラスは、戦前の沖縄にたどり着くのは難しいということとなる。
何ということか、骨董屋のオヤジにしてやられた! ・・・とも思った。

しかし、べつの詳しいサイトでは、フェデラル社は1920年代~40年代に、盛んにショットグラスも製造した、と書いてあった(ちなみにこの頃のガラス製テーブルウェアを、俗に「恐慌ガラス(Depression glass)」とも呼ぶそうだ)。
1927年には、盾にFマークも使用されはじめていたという。

ただし、フェデラル社は廃業の1979年頃までショットグラスの製造もしていた可能性があるらしい。戦後は主としてミルクガラスの耐熱食器に移行したから、クリスタルガラスは比較的少ないのだそうだが・・・それでもこれでは、年代特定ができない。
が、少なくとも骨董店店主のいう「大正時代」ではないことは分かった(大正は1926年までだ)。

ちなみに、アメリカのオークション&販売サイトでは、1つ2000円した私のショットグラスが、100円~500円の相場だった。送料を考えても、やはり失敗の買い物だったのか?
だがもしも、那覇市内のその超インテリ持ち主が戦前から手にしていて庭に埋めた物だったのなら、やはりそれだけの価値はある。
だがもしも、その人が戦後アメリカ統治時代にアメリカ人から買ったり貰ったものならば、・・・やはり500円くらいの価値しかないだろうか。あるいはフェデラル社のファンは今も多いから、1000円くらいはするだろうか・・・

どっちにしても、この謎はさらに突き詰めて解いていかねば気がすまない。
苦悶しながら、今日の所は眠るとしよう。



〈後日談: 9/30〉

翌日、ほかの用件をひっかけて、再度その骨董屋さんへ出向いた。
博識店主はいつもの笑顔で「間違いないよ」と言いながら、「念のため、持ってた人に電話してみよう」と携帯を取り出した。

御歳94の聡明なるオバァは、初めて電話ごしに話す見ず知らずの私にも、動じずにしっかりといわれを話してくれた。
「どうだったかなぁ、ちょっと忘れた」と付け加えて話しつつ、品物はたしかに古いレコードなどと一緒に、庭の地下壕に埋め、10・10空襲を逃れたのだと語った。その持ち主だった前の御主人の話や、戦前の海軍マーチングバンドの話もしてくれた。

私は、どうしても情報の裏取りをしたいために、しがみつくかのように何度も質問をした。
そして電話を切り、唸りながら、持参したショットグラスを見つめた。世にも珍しい1930年代製のショットグラス、しかも沖縄戦をくぐり抜けた逸品、ということになる。
年月と物語を含んで、ショットグラスはいっそう美しく見えた。

再度店主の携帯が鳴った。
それに出た店主は、すぐにそれを私に渡した。
オバァが言った。
「あのね、思い出したの。アメリカ製でしょ、小さなコップ。そういうのは、戦後、私が東京に出て買ったものよ。戦後すぐのこと」

それから私は、もう一度よくよくそのことを聞いて確かめ、店主に携帯を渡した。
店主は呆れながら、「前には、壕から出てきたって言ってたじゃない。・・・ああ、そうなの、ああ・・・」と言って電話を切った。

しばらく沈黙があってから、私と店主は苦笑しあい、慰めあい、謝りあい、真実が分かって本当によかったと溜め息を付きあった。店主は全品返品を受け付けると言って計算し、今度でいいと言う私に、返金分の金銭をなかば強引に前払いで手渡した。
私は、懲りずにまた情報と御品物を譲ってくれるように頼んだのだった。


・・・というわけで。
沖縄で見つかった戦前のフェデラル社製ショットグラスは、幻となった。
私はそれをすべて返品するけれど、・・・大戦前後に製造されたその7つのショットグラスは、酒をほとんど飲まない私さえもがちょっぴり惜しいと思うくらい、やはり美しく可愛らしい代物なのだ。













2015年8月3日月曜日

小型ノートパソコンを買った

アナログ文具もデジタル機器も、自由自在に使いこなす。しかも家の内外・世界中どこでも。
――そんな道具の使い方が、いちおう私の理想としてある。

昨日、あたらしいパソコンが届いた。
ネットで購入した11インチちょっとの小型ぎみノートPC。容量は小さいが水色のグラデーションが美しく、価格も2万8千円弱と格安だった。
Windows8.1が入っているが、4日ほど前にWindows10が公開されたから、そのうちに無料アップデートするつもりだ。
本日の午前中に、ワイヤレス・マウスも届いた。

……こうして、新しい機器にわくわくしながら、そのわくわくに任せてこの文章を書いている。
もちろん、使い勝手を試しながら。

半ば衝動買いしたパソコンだが、妻は「そんなに安いの大丈夫?」と怪訝そうだった。
これまで我々は、だいたいはDELL製のパソコンにしていて値段も安く品質も良かった。しかし最後に妻が買ったDELLノートパソコンが酷かったのだ。値段はそこそこ安かったが、デザイン・使い勝手ともまさに低級だったらしい。

今回のこのパソコンは、私にとっては初めてのヒューレット・パッカード製、初めての小型ノート、初めてのSSD(HDDでない)パソコンである。
レヴュー通り、今のところとてもよい。ネットは多少遅いけれど、文章作成や表計算ソフトを使用するために揃えたのだから別にそれはいいのだ。

このパソコン、常用するパソコンとしては3台目に位置づけている。
自室にはネットサーフ・メール送受信・ウェブづくりに使用するノートPCがあり、その横に画像加工・画像描画に使用するデスクトップPCがある。前者は座って、後者は立って使用している。動かしたりはしない。
新しい3台目を使って、ずっと夢であったノマド(放牧民)的なやり方をしたいと考えている。

じつは以前、文章を書くためにポケットサイズのワープロ専用機「ポメラ」を使っていた。
折り畳み式キーボードを開けて、小さな画面を見ながら文章を入力し、あとでパソコンにデータを移す。家でもカフェでも、どこでも簡単にポケットから取り出してテキスト文章を打てるのが便利だしカッコいい。立ち上がりもパソコンよりずっと速かった。
が、この評判のキングジム製機器が、じつのところ非常に良くなかった。

まず、入っているATOK日本語入力ソフトの変換能力が悪かった。しかも、キー入力が文節ごとにわずかに遅れ、タイムラグが生じた。これは恒常的なストレスになった。
そのうちに、外表面のラバーがベタベタしてきて、触るたびにあちこち周辺にも黒いゴムのベタベタを付着することとなった。あっという間に、加水分解してきてしまったのだ。

結局、発売開始と同時に購入した待望の「ポメラ」はすぐにしまい込み、ときどき出してはティッシュで拭き、やはりダメだと溜息をつくことを繰り返した。だいぶ後になって「やはりこの商品はおかしい! 安くなかったのに」と怒りが沸騰してメーカーに苦情を入れ、すったもんだはあったが、結局中古品の同機と交換してもらった。
そのポメラも、3か月ほどでキーボード部分の接続が擦れて、自然に壊れてしまったのだった。

私は、ポメラの性能が良ければそれが欲しかった。製品のコンセプトは素晴らしい。だが現実がこの有様で話にならない。
いろいろ考えて、小型ノートパソコンにしようと決めた。
大きめの電機屋さんを2か所回った。現物を見て買いたかったからだが、価格が高く、その割にこれぞという品がない。
対して、ネットショッピングは快適だった。こうして現物を確認もせずに、レヴューを参考にしながら買って、いい物が手に入ってしまうのだから。


私はパソコンを3台の他に、タブレットも使う。
ただし、携帯電話はスマホでなく毎月額の安いPHSだ。メール機能は使用せず、電話機としてのみ使用している。友人からメールが入ってしまっても、メールは返さずすぐに電話をかける。
普通のノートとペンもたくさん使う。私的な思索は紙のノートでなければならない。
他にも予定帳や日記などは当然紙で、長年同じジェルインクペンを使って書いている。

道具の使い方は、個人個人で決めるべきことだから、こうしたアナログ・デジタル入り混じった機器の使用に、個人的には満足している。

妻は、たとえば梅干しを作るのにまずスマホで作り方を調べ、ネットで九州梅を注文し、いちおう姑にも電話でコツを聞いたあと、昔ながらの竹ザルに懐かしい香りの梅やシソを干していた。
……このやり方は現代において何の不思議さもないはずなのに、私には、デジタルとアナログを、昔ながらの伝統と最新機器とを使いこなしているように見えて、嬉しくなる。


道具は道具であって、目的でなく手段である。デジタルもアナログも関係ない。使うのは人間であって、道具に使われてはならない。
……という意見は、道半ばな考え方であると思う。

方法も道具も、手段としての構造に組み込まれた時点で、いくつもの小目的を形成するからである。目的的行動は、必ず組織化して大小複数の別目的を生み、行動体系は複雑化する。特に大きな目的を達成する場合は、文字通り一筋縄ではいかない。
道具は行動を変え、新たな目的を次々と生み、大目的さえ変えかねないのである。たかが道具、されど道具なのだ。


私がなぜノマド的な道具使用に憧れるかというと、ひとつには自由への憧憬がある。場所を選ばず仕事ができる、好きなところで気ままに作業をこなせる。いわゆる「どこでもオフィス」には多くの人がほのかに憧れを持っている違いない。

もうひとつの理由は、部屋が狭いからなのだ。いま私は、数百の古い琉球ガラスを蒐集し、デカルト本も数多く集めている。管理の方法は色々と模索したが、結局、ツールストッカーと呼ばれる積み上げ可能な大型のプラスティックケースを用いている。それが数十個、6畳間を占拠する。ヨーロッパの古い教会の地下石棺室をイメージしていただければ、それに近いものがあるだろう。不気味で異様な光景だと我ながら思う。

研究を進めるには当然、現物を出さねばならないが、するとすぐに机周りがいっぱいになる。
先日、マントとずきんを被った姿で4歳の息子が入ってきて、ダース・ベイダーの声真似をしながら手にしていた棒をひと振りし、見事に琉球ガラスのコレクションをひとつ割った。
うちは広々とした一軒家ではない。狭々しいアパート暮らしなのである。
それでも、この条件下でなんとかかんとかやっていく他ない。

私の中に、もう一つの理想形がある。
明治期に日本を歩いた誰だったか外国人が、日本人の暮らしぶりはまるでおままごとのようだ、あるいは演劇の舞台を見ているようだと評したとどこかで聞いたことがある。ちゃぶ台を出して食器を並べ、食事がすんだら食器もちゃぶ台も方付け、そこで子供が遊び、婦人が洗濯物をたたみ、寝るときは布団を敷き、朝にはそれを畳んで仕舞う。ひとつの和室に、小ぶりで高質な調度品を出したり仕舞ったりして可愛らしく生活していた、ということだった。

この日本人の生活様式を、現代の自分の家でできたならば、とよく思う。
というよりも、必要に迫られてこの様式に近くなってきそうなのだが。

公共の世間に出て作業し、広い世界を見ながら仕事をし、家では小ぢんまりと工夫して上質な生活を営む。
ウチもソトも自分の空間となる。
……その理想的生活を体現するための、今回の小型ノートパソコン、と言ったら強引だろうか。

これから面白い生活になればと思う。



2015年7月22日水曜日

紀田順一郎氏の蔵書整理考/モノへの愛着について

このブログでは、有意味で堅い思索試論を載せるつもりできた。
ところが、自分で書いていても堅くてつまらない。
しぜんと滞ってしまった。

進まなくては意味もないし、やはり多少は柔らかい文章のほうが誰にとっても読みよい。
そこで、極めて私的に書いている別のブログの内容で、こちらに載せても不自然でないようなものを、このブログに載せることに致します。

今回の内容は、紀田順一郎氏のことから。

   ※

紀田順一郎氏のウェブサイトを時折眺める。

氏は文字や出版などの事情を熟知したとても著名な執筆家である。それでいて、今回のエッセイは、蔵書の処分に悩んでいるというテーマで興味深かった。

紀田順一郎のウェブサイト『書斎の四季』↓
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/

今回のエッセイ「当世蔵書事情」↓
http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2015/051401/index.html

この20年ほどで古書流通の事情ががらりと変わったという。
古書店の態度からして変わった、というくだりが面白い。
私自身は変化を肌で感じたのは2005年頃だった。ブックオフに持っていく本の買取価格が、2005年の前後で急激に落ちたのだ。


さて、紀田氏はそのエッセイの中で、蔵書印に思いを込めた幕末の国学者の粋な一句を引用している。

「我死なば 売りて黄金に換えななん、親の物とて虫に食ますな」

この文を、紀田氏は「本心ではなく韜晦」と推し量っているけれど、ぼくにはこれも蔵書家の遺言をぎゅっとまとめたものとして本心だろうと思われる。

蔵書家のみならず、コレクターはみな、自身の死後のことを考えている人とそうでない人とでは、思想の奥行きが違うと私は常々思う。
自分のことだけ考えて自己満足を目指す、あるいは(執筆や商売などのために)目的的に集める。――それは前提としてあろうが、その後のことを考えるか否かは、モノの集合がシステムをまとい、どう後世で動くかという点を考慮するか否かということだ。子孫の利益を考える人と、「自分のあとのことは知りません」という人とでは、生き方に雲泥の差が出てくるのは当然のことだろう。
社会への影響つまり後世の人々への影響を、自身の所有物に関してコントロールを図るというのは、単純な自己愛を超えて社会への愛情でもあり、モノへの深い愛着でもある。

そういった思想のひとつを、粋な一句で蔵書印に押し込めるというのは、……素晴らしい。

いや、(今アメリカで流行しているという)コンマリさんの人生がときめくように片づける方法も、「人生、自分の感性を大事にする」モノの扱い方として、ひとつ大きな真理を突いてはいるのだ。自分の心に問いかけ、ときめかないものは捨てる、ときめくものをこそ取っておく。
かつてお気に入りだった洋服に感謝のキスをして別れを告げる。潔くていい。
しかし幼児的精神をもちつづけているわれわれ日本人は、モノに擬人化された愛着を感ずる。
その洋服がどうなるか? 巨大な焼却炉におちていくところを想像すると心苦しくなるだろう。

たぶん、コンマリさんの片づけ方法は、社会全体のリサイクルシステムの発展で、真に完成するのだ。
大型古書店やリサイクル屋や骨董店の多くが、セコいやり口で胡散臭く儲けていたとしても、社会への貢献度はやはり高いといわざるをえない。彼らは、モノへの愛着を掬い取ってくれる、貴重な存在なのだから。


ちなみに、さきの一句、
「我死なば 売りて黄金に換えななん、親の物とて虫に食ますな」
は、たぶん、

「我死なば 焼くな埋むな野に捨てて 飢ゑたる犬の腹を肥やせよ」

から趣を得て作ったのではないかと推測する。
後者は小野小町か橘嘉智子の歌といわれる。

私が死んだら遺体も他の生命のために使ってね、みてくれは構わないの、手間はかけないで、そして私のことなど忘れてね、といわんばかりの壮絶な内容である。はや9世紀に詠まれた短歌だ。美女が詠んだとなれば、なお刮目に値する。

(あくまで私のもつイメージなのだが、)現代の年配の方々の多くは、じぶんが入る墓の心配ばかりして多大な時間と金とを費やすのではないか。日本中の森林を崩して増え続ける墓地とそれを管理しつづける子々孫々のことなど構いやしないし、ましてや動植物のことなどは完全に OUT OF 眼中であろう。

もったいない、ということの意味を何重にも考えなければ、本当にもったいない生き方をすることになる。モノへの愛情と、自分への愛情と、そして他者への愛情とは、無関係ではない。

     ※

ところで、ふと蔵書印について思う。
さっきのエッセイに紀田順一郎氏はご自身の蔵書印の有る無しについて書いておられなかった。

私の父も若い頃、「〇〇蔵書」と四角く朱い蔵書印をたいせつな本には捺していたようだけれど、通常、無名人の捺印はその本の市場価値を若干下げる。(まぁ、家族が眺めると多少情緒を感じないこともないが。)

だが紀田氏ほど有名になったら、蔵書印がプレミアを付加するのではないか? ちまたのサイン本よりも価値が高くなりそうだし、自著でなくても捺印できるので量産が可能であろう。

さらに、「我なんとかかんとか」と気の利いた1首を蔵書印に込めたなら、それはもしかすると後世の人々の胸に永久に刻まれ続けることになるかもしれない。
本の片隅で、思想は死なずに生き続けるのである。

畳の上で日向ぼっこでもしながら、蔵書リストをつくりつつ、パラパラめくりながら蔵書印を捺す作業をするのは楽しそうだ。いや、暇人で茶人でなければ、かえって楽しめなさそうだけれど…

私も蔵書印には憧れる。
が、たぶんそういうことは今後もしないだろう。
つまらない本に捺したところで何の意味もないし、価値の高い本に捺すならば、自分が有名になると前提しなければなるまいと、そんなことを考えてしまう。

日向ぼっこで本を開くという優雅な生活も長らくしていない。
結局のところ、つまらぬ市井の貧乏暇なし人なのだ。
いろいろともったいないことだ。

2015年3月1日日曜日

表現のコントロールは難しい


私自身はかなりWeb上の表現を自覚的にコントロールしているつもりなのだけれど、それがねらい通りうまくいっているかというと、まったくもってなかなか難しい。自己評価はまだまだ低い。

たとえばこの「手植えノートMemo」ブログは、読者のたのしさ度外視で、お固い内容でも有意味なものを書こうという意図の下、一般一市民としての私自身の思索を開示する試みである。
そこそこ有意味だと思うけれど、しかし肩に力が入りすぎているので、固すぎる。
自分でさえ、読み返してたのしさに欠け、読みぐるしいのである。
これはお読みいただければ分かることだろう。

あるいは「デカルトの重箱」ブログは、デカルトについて知識人が書いたものに噛みつく、という反骨精神全開なコンセプトで書いている。
自ずと、表現にいつも刺々しさがある厳しい内容となる。
いや、それでいいのだ。いいのだが、読み続けると何だかイライラ・カリカリしている(心理学でいうAタイプの)人が書いているような文章で、読んで心地よいものではない。

じつは他にも、公表するためでなく自分の練習用にも生活表現としてのブログを持っている。
心にうつりゆくよしなし事を書き綴るだけだから、そちらも別に面白いものではない。

私の友人・知人は、私のブログをほとんど読まない。かわりに彼らは、私の妻のブログを読んで、私の昨今の動向をぼんやりと把握しているらしい。
妻のブログは写真が効果的に用いられ、文章はライトでビビッドに読者の感性に届く。面白いと、、すこぶる評判が良い。


Webでの表現というのは、一にも二にも目的的であると思う。
だから、楽しく感じさせたいなら楽しく書き、情報を的確に伝えたいなら伝わるように書き、あちらを喧伝してこちらを隠すならそうなるように、効果的に表現すべきである。
私の心には、ふだんの生き方・あり方が「面白おかしく、楽しく有意味に、無理せず、純心と誠意をもって云々」という指針があって、大体そのように生活しているのだけれど、ブログでは「面白くなくても有意味に」という指針をもっていて、それがそのまま形になってしまっている。

だから、実際のじぶんと、ブログ上の文章表現とのギャップが大きい。
これは本意ではない。

「デカルトの重箱」噛みつきブログだって、2chなどで見られるような吐き捨ての嫌味は避けている。
けれど嫌味な感じは残る。
批判のオンパレードを書いているのだから仕方がないか。

もしそれを改めるとすれば、批判を書いてもさほど嫌味でないように、あるいは文章をもっと楽しく、などとコンセプトを変える必要がある。
あたりまえのことを私は今書いているかもしれない。
やり方がそこそこ正しければ、コンセプトどおりに事は進むものなのだから。
だから逆に、コンセプトに見落としがあれば、見落とされたままそれは現実となるのである。
常日頃からフィードバックは欠かせない。

図書でも、よくよく(なぜ印象をフィードバックしないのか?)というものがある。
「人を不快にさせない礼儀作法」を教示する礼儀作法本で、嫌味な姑のごとく一般読者を注意し続けるような文体であることは、よく見かける。読者はどこか不快になるが、これはフィードバックができていないのである。
同様に、CD付の英語学習本で、CDの声がおっかない先生で楽しくなさそうに読んでいたりするものも多い。できの悪い生徒はすぐに離れていく。
爽やかな印象をつくるために、人物やタイトルの後ろに雲浮かぶ美空を合成した本も見かける。気持ちは分かるが、それをみると、未知なる新興宗教的の案内にも見えるから、作り手は注意されたい。爽やかな空の写真は、人工創作物と合成すると、直接的すぎて胡散臭いのである。
きわめつけは、「レイアウト本」だ。本をよりよく作るためのレイアウト教示本そのもののレイアウトがイマイチだったり、見目ダサかったり、字が小さすぎて読みにくかったりということがある。文字が小さいとスタイリッシュに見えるけれど、難読になるのだ。読みにくかったらレイアウトの意味がない。

コンセプトをフィードバックして推敲することは、このように超・重要かつ有用である。
コンセプトを実現できるような技量も自分につけることも、重要ポイントだろう。Web表現に限った話ではない。コンセプトの推敲や技量獲得は、表現するハードルを上げるとともに、頑張りがいを出すのに有効だし、なによりも成果が得られるというものだ。



2015年2月21日土曜日

プロフィール主張の是非について


今回のブログで問いたいのは、「自己のプロフィール」をどう世間に開示するか、という問題である。
「アイデンティティ」についてさらっと考えて、「自己紹介」についてべたっと考えてから、最後の方で、Web上ではどういう「自己プロフィール」のあり方がよいのかをばっちり探ってみたい。


〈「アイデンティティ」について:〉

先日、保育園に通う息子の面談があって、ペンとメモ帳を手にぶらぶらと歩いて登園した。
関東とちがい、すでに沖縄は春の陽気である。
子どもたちは、大きくて真っ黒なカーテンの向こうでお昼寝中で、私と先生は廊下に置かれた小さな椅子に座って対面した。

いろいろと小さな悩みを打ち明けたり相談したのだが、私自身が驚いたのは、わが息子はウチでのワガママっぷり自己主張の強さを、保育園ではまったく発揮せず、完全にイイ子で自己主張のないキャラクターに徹しているという事実だった。

先生は、「それでいいんですよ」言った。我慢と発散のバランスが大事だと言ってくれる。
私 「しかし、かなり二面性を持っているんですね」
先生「お父さん、われわれ大人だって、会社とウチとで分けているじゃないですか。社会性ですよ」
私 「まぁそうですけれど、その二面性の差を、できるだけ小さくしていくのが理想的ですよね」
先生「そうでしょうか?」

ここからは主義、ポリシーの話になるから答えは出るはずもないのだが、私としては、朱子学的な大義名分論(君は君たり、臣は臣たり)よりも、自由主義が性に合っている。そのせいで、会社でも私はまま「言いたい放題なヤツだ」「空気が読めていない」などと呆れられる。
しかし、私自身としてはまだまだ内心・家庭・職場の間のギャップは狭める余地がある。もちろん、誰に対しても同じ顔つきの仮面を被るのではなくて、どこにいても心は裸族でありたいわけである。

まぁ、息子のことは別にいい。
私も妻も学校で自己主張の強いほうではなかったし、それでいて好みはハッキリしていたから、当然、子どももそういうことになるのだろう。
ポリシーや人格は、結局のところ彼が自分で構築していくものだ。

青年期には多くの人がアイデンティティ(自己同一性)の確立に悩む。別々の場所で別々のキャラクターを演じる自身が、一個の人間であるということの整合性を模索する。

近年では、作家の平野啓一郎氏が「分人」という考え方を模索し、他人それぞれに対し別の顔を無数に持つことが人間の本性であるということで、「個人」という普通の考え方に異論を唱えていておもしろい。
これは大義名分論と平等主義との弁証法的な成果のような、あるいはもっと新しいアプローチのようにも思えるのだけれど、ちょっと進むと、まだ単発アイディアの域を出ていないとも感じる。


〈「自己紹介」について:〉

個人的には子どもの頃、自己紹介がとても嫌だった。
話が苦手ではないはずの私だったが、中学1年の時、ある会合で自己紹介ができずに完全に押し黙ってしまったことがある。大人になった今もその時の苦痛を薄っすら覚えている。

かと思えば、世の中にはもの凄く流暢に堂々と自己紹介ができる人もいる。
数年前、ある単発的な会合で見た20歳の女性は、才能に満ちていた。顔も着ている服も美しく、瞳は輝き、高学歴で社会活動も活発、夢も進路も考え方も話法も発言も完成されており、まるでドラマのヒロインがテレビから出てきてしまったのかと思うくらいだった。その人の自己紹介が、やはり凄かったのだ。完璧というのはこういうことかと、妻と私は帰りの車内で思い出しながら唸ってしまった。

しかし、完璧な人物を見ると、私のような凡人はどうも疑いの念を持ち、批判を試みたくなる。嫉妬はあるかもしれないが、それよりも、自分は何をその人から学べて、何を学べないのか、探るためなのである。

まず、全否定を含めた懐疑を試みる。
――そもそも「完璧な自己紹介」というもの自体が、いいのか、悪いのか。必要なものなのか否か。

自己紹介は、即物的なものではない。対他者的な、社会的な構造のなかでの戦略的アプローチの形式である。
自己紹介には、まず内容の事実があり、目的があり、策略があり、取捨選択や見せ方があり、そして成果がある。
(われわれの容姿や身だしなみ、礼儀作法や行動内容など、すべてがこれと同じ要素を含んでいる。髪をムースでガチガチに固めてビシッとしたスーツできめても、客や社員に毛嫌いされていたら、ほとんどムダということだ。)

ということは、もし強烈な才能を印象づけたいのなら「完璧な自己紹介」は成功である。また、人間関係を新たに築くきっかけにしたいのなら、相手を怖じけさせることもあるから、50点になるかもしれない。
いちばん上手いのは、少し“抜く”ことかもしれない。完璧に掃き清められたお寺の境内を掃除するよう命じられ、木立の幹を揺すって自然な落ち葉の散る趣をつくった小僧の話は有名だ。

では、われわれ凡人の大半が一般に述べるような、ありきたりで印象に残らない自己紹介はどうか。
対他者的に何の成果も残さない点では、失敗に近い。30点くらいだろうか。0点の場合もあろう。
しかし、人間は「不快な印象を残さない」ままその場にいるだけで成功、ということがある。無難に目立たずに存在することを目指すのなら、凡庸な自己紹介も成功だろう。

いちばん良いのは、いわゆる「上手だったね」「面白かったね」「タメになったね」という好印象を軽く残す自己紹介か。
まだ知り合うか合わないかの場面では、そういう自己紹介が求められているし、そういう自己紹介をしようと多くの人があれこれ考えている。
自己紹介が社会的構造のなかの目的的な行為である以上、自己紹介する側だけでなく、聞く側についても同じことがいえる。

つまり自己紹介とは、「何か面白い話はないか? 有用な情報はないか?」と期待している人々に、あるいは「有害じゃないことを」と望む人々に、話者それぞれがその期待に応えつつしかも目的的・戦略的に自己をアプローチして成果を期待するという、極めて計算高い行為の応酬劇なのだ!

それゆえ、「まず、自己紹介からはじめましょうか」と進行役の人が言い出すと、幾重にも意図的なものがただよう不自然な居心地の悪さを、われわれの無意識が多かれ少なかれ直感する。
(それにそもそも我々の多くは、自分自身のことなど大して分かっちゃいないのだ。それをアピールしろというのは、ある種の無理難題だろう。)

逆に、目的も活用も期待しない偶然の出会いに自己紹介はいらない。
微笑みと純心だけを胸に、あとは聞きたいことを尋ねあえばよい。


〈Web上の「自己プロフィール」のあり方について:〉

ところが世間には、他人から聞かれもしないのに自らプロフィールを掲げている場面がある。
Web上など、まさに不特定多数の相手に向かって発信している。他にも本のカバーの見返し、雑誌記事の端など。
テレビでもコメンテーターのプロフィールがテロップで流れることがあるが、これはもちろん、「これを言っている人間は、どんな人なの?」と視聴者・読者が知りたがっていることを想定してのことである。講演会などでは自己紹介ではなく、司会が講演者のことを紹介するが、それと同じだ。

けれど、自分で書いた記事や本やWeb記事には、自己紹介することになるのが普通である。
(ときどき、著者のプロフィールに著者の業績を賛美・評価するのが含まれているのをみると、たとえそれを担当しのが編集者だとしても、著者が自賛しているように見えて白々しく感じることがある。尊敬語を自身に使っているのと同じ印象になる。)

で、そうした「不特定多数の人へのプロフィール」をどう表現するか、というのが今回のブログの本題なのである。

Web上のことを考えてみる。
プロフィールに行き着くには、3パターンがある。

1) 記事から
2) 人物から
3) 場から 

1)は、記事をみつけて読み、(これはどんな人が書いたのかな?)とプロフィールを見るばあい。
2)は、(この人の書いたのを読もう)と探して読み、そこにあるプロフィールを再確認するばあい。
3)は、SNSのプロフィールのように、記事も人もとばしていきなりプロフィールから見るばあい。

さいしょに取り上げたいのは、3)についてだ。
3)は、さっきのリアルな世界での「自己紹介」に似ているが、もっと唐突で、違和感がある。まったく未知で会ったこともない一般人のプロフィールをわんさか見せつけられても、ほぼジャンク情報でしかない。
ただし、たとえば時間をかけてその人の書いた記事を読み、ネット上でやりとりをしたりすれば、その長いプロフィールも徐々にジャンクではなくなり、人物をイメージするための材料となるだろう。

こういう時、理想的なのは「簡易プロフィール」と「詳細プロフィール」の二段階を踏むことである。
細かくディープなプロフィールは、「もっと知りたい!」という人にだけ開示するのがよい。さいしょから細かいと、(自意識過剰な人だな)と思われる。簡単なプロフィールだけでは、(どんな人かよく分からなかった)で終わる。

これが1)の場合だと、もっと匙加減が難しい。
短いプロフィールが「淡白で不親切」と思われるばあいと、「シンプルで清々しい」と思われる場合とある。
長いプロフィールが「クドくてアピール過剰!」と思われる場合と、「懇切丁寧で分かりやすい」と思われる場合がある。
それこそTPO・場面場面ばかりでなく、読者によりけり・感性如何だったりするのだ。

では2)の場合はどうか。
ある程度その人物を知っていて興味を持ち、さらにもっとその人のことを知りたいと思うからプロフィールを読むわけだから、長いほうがよいに決まっている。


…と、ここまで考察してきたが、ここまでは読者目線を意識しての考察であり、著者自身の都合からも考えておかなければならない。なにしろ、不特定多数の人間に向けて書くのだから。

1) 誰を読者に想定し、何を目的に書くのか?
2) 何を強調して伝え、何を隠したいか?
3) プライベートをどこまで開示するか?

いちばん注意すべきは、3)のプライベートをどこまで開示するか、である。
隠しすぎると内容がツマらなくなる。が、書きすぎれば危険である。世の中、どんな人間がいるか分からない。
匙加減。一にも二にも匙加減である。
センスが問われるし、答えは結局、本人の中で作るしかない。

1)と2)は、戦略と内容が問題になる。
商売ごとならイイトコばかり書いてもいいが、それだと当然、表面的でビジネスライクで押しの強いものになる。
自身をさらけ出しすぎると、不都合も出てくるだろう。それを留意しつつ、他方では覚悟するべきである。言葉はもとより諸刃のヤイバだ。

私が個人的に感じるのは、SNS(フェイスブックやミクシィなど)では一時期、多くの人が情報を開示しすぎていた。アメリカの研究者がそこから個人情報を自動抽出し、街中でスマホのカメラをかざすと、リアルタイムで通りを歩く人間の個人情報が掲示されるというソフトを紹介しているTV番組があったのを覚えている。

そういう一般市民が自己顕示過多なのに対して、逆に著名人や研究者など、世の中に積極的にアプローチしてしかるべき人々がほとんどWeb上で情報を公開していない場合も多くみられる。
なぜ、著名人があえて自分を隠すのか? 研究者が自分の研究成果を積極的に世間に紹介しないのか?
私が理解に苦しむのはそこだ。



以下、具体的にWeb上のプロフィールの例を挙げてリンクを貼ってみたい。
いや実のところ私は特にアニメに詳しいわけではないが、アニメ映画分野で自分が多く観た作品の監督について例示してみました。

・アニメーション監督の押井守氏のプロフィール
http://www.oshiimamoru.com/profile/profile.htm
通常版と詳細版に分かれている! さすがだ。通常版が長めだが、興味のある人間だけが訪れるサイトだから良いと思われる。詳細版が自分史的なのが面白い。

・アニメーション監督の大友克洋氏のプロフィール
http://www.b-ch.com/contents/ohtomo_sp/locus.html
ご自身でつくられたプロフィールではなさそうだが、作品でたどる時系列のカッコいいプロフィールで、最後に別枠で短い一般的なプロフィールが示してある。人物よりも成果としての作品をごらん、という感じだ。

・アニメーション監督の今敏氏のプロフィール
http://konstone.s-kon.net/modules/works/index.php?content_id=1
主として作品でたどるシンプルな時系列プロフィール。プロフィールはひとつだけで、履歴書のように淡白ではあるが、最後に自己プロフィールについての短い考察があって彼のキャラクターの一端が伺える。

・アニメーション監督の宮﨑駿氏のプロフィール
・アニメーション監督の高畑勲氏のプロフィール
言わずと知れたスタジオジブリの2巨匠は、その公式ウェブサイトにさえプロフィールが見当たらない。色んな所に載っているから言わずと知れてるだろう、そもそもプロフィールなんか書きたくないよ、と言わんばかりだ。

2015年1月6日火曜日

“抜け感”試論

昨年放送されたNHKの番組に、「ニッポン戦後サブカルチャー史」という面白いシリーズがあった。
http://www.nhk.or.jp/subculture/lect_list.html

私は録画した分を昨年の11月頃に見た。戦後の大衆文化を時系列で紹介して分析的に解説する番組で、テレビやアニメや歌や劇やゲーム、漫画や服飾や本や言葉など、一言でいえば時代時代の「流行りモノ」ばかりを集め、時事問題と併せて紹介してくれる番組だった。講師は、劇作家・演出家の宮沢章夫である。
その中で、1980年代の広告・コピーがテーマにあげられた回で、私は思わずハッとさせられたことがある。

80年代というとバブル期の末にあたり、2010年代を生きる我々が振り返ると、にぎやかで絢爛で楽しげでありながら、表層的な危うさと嘘くささの漂う、幻想的な一時代に思える。日本では物的な豊かさが過飽和状態となり、大衆によるブランド志向と大量生産・大量消費がピークに達し、それにともなって広告業界が隆盛を極め、5兆円規模にまで膨れていた。
すなわち、商品を売るためのキャッチコピーやテレビCMが、大いに話題になり流行をうみ、消費社会を牽引していた。

さて、そういったコピーやCMが評価されるものほど、あるいは効果的なものほど、宣伝的でないのだという。
宣伝性の低い宣伝ほど宣伝効果がある。…不思議だが、それはひとつの真理でもあった。
どういうことかというと、たとえば。
デパートの宣伝をする広告で、デパートとまったく関係のない事柄が、刺激的な言葉と写真で表現される。
商品を宣伝するためのCMに、商品とは関係のないギャグが放送される。商品説明はない。

こうした評判のCMやポスターを作っていた人々には、カリスマ的な才人が何人もいた。

有名広告プロデューサー・川崎徹氏は、次のようなことを話していた。
「多くの広告が、必要なこと・言いたいことだけ一方的に主張して、惨敗する」
「“抜く”ということが広告ではとても大事です。つまり、本命である宣伝説明を、あえて抜いて無価値化することで、逆に広告の効率をあげる」
そうしてできた“抜け感”のある「完全にムダな」広告こそが、成功する広告なのだという。

有名コピーライター・糸井重里氏。筑紫哲也と交わした雑誌の対談が引用されていた。
この対談は結局、宣伝広告が意味や価値のあるものたりうるのかどうか、という議論であろう。
筑紫 「根源的でダサい質問だけれど、コピーは思想を語れますか?」
糸井 「いや、逆に質問しますと、世の中に思想を含んでいないものが何かありますか? この灰皿ひとつとっても――」


これらを聴いた私は衝撃を受けた。

私が商品説明を作ると、1から100まで説明したくなる。
ポスターを作れば、必要十分に伝えるべきを描きたくなる。
お客様に細かく丁寧に説明しなければ不親切だと、そう思うからおのずとそうなる。
しかし、結果的になぜかポスターはダサく、冴えない仕上がりになってしまう。
“抜け感”という一語に、私は、いつも自分が悩んでいる自分が作るものの“ダサさ”の理由の一端をつかんだ気がした。これこそが“アカ抜ける”ための工夫のひとつなのだと思う。

以上のことを、妻に勇んで話した。すると、こんな返答だった。
「ホント、世間ではよく聞く言葉だよね。“抜け感”とか“着こなし感”とか、ファッション雑誌では他に何か言えないの?っていうくらい」
そ、そんなによく使われている言葉なのか、“抜け感”が…
私は出遅れた感をあじわった。


以来、“抜け感”についていろいろ考えた。

少し似たような考え方が、レイアウトデザインの分野にもある。「ホワイトスペース」のことだ。
なにもない空間を、あえてレイアウトに取り入れる手法である。画面に情報をぎゅうぎゅうに詰め込むと、可読性も下がるし、ダサくなる。
この「ホワイトスペース」は、ヨーロッパの人々が日本の浮世絵から学んだものだと解説されることがある。
けれど、私は本当にそうなのかな、と疑問に思っている。19世紀イギリスの水彩風景画家ターナーの絵にある広い空。18世紀オランダの画家フェルメールによる肖像画にある背景の漆黒。
(宋の時代(960~1279)の水墨画、そこから学んだ室町後期の雪舟…)

そもそも、われわれが生きる現実世界の構成も、そうなっている。
風景は、空というホワイトスペースを含んでいる。机の上も、乗せてあるもの以外は広い背景だ。
話の上手な人は、ときどき「間」をとる。そうして、相手にしばし考えるための余裕を与える。

けれども、雑誌や本などのレイアウトデザインで「ホワイトスペース」を作るには、やはりあえて意識しなければ難しい。
限られた紙面で、情報を必要十分に伝えねばならない。それなのに、情報皆無の空間をあっちにもこっちにも作るのは、ひとつの矛盾であろう。デザイン性を上げるために、広すぎる空白を作ることさえあるが、内心は、載せたいのに載せない感性の板ばさみに苛まれている。
何のためのムダな空白?
きっと「ホワイトスペース」は、“抜け感”をつくるためにあるのだ。


2015年、正月。
私は今年、じぶんの生き方にも“抜け感”を応用してみることにした。
“抜け感”のある生活を目指そう。

どんなことを考えているかというと、
(1) 大切なポイント(目標)は、外さない。
(2) しかしそれ以外は、あえて外す。ムダを多くして、意味や価値を削る。

この「あえて外す」ことが、“抜け感”装置だ。
普通は、「これを頑張ります。他のことも、できるだけ全部がんばります」となるだろう。
それを、「これはがんばります。ほかは頑張りません!」とする。
この工夫で、私は2015年を面白くしたい。


ところで、そもそもなぜ“抜け感”が、“かっこよさ”の要因になりうるのか?

余計な力みをなくして、自然体で表現を発動する。力を“抜く”。
それはわかる。
(職人でも経営者でも俳優でも、実力ある人間は、変な力は入れずに柔軟な動き方をする。太極拳の達人が、気の流れをスムーズに保つように。)
しかし、宣伝広告で、宣伝すべき事柄を伝えすぎてはいけない、どころか、ぜんぜん宣伝と関係のないムダこそがよい(そして実際にその方が宣伝効果がある)のは、一体全体どういう理屈でそうなるのだろう?

私は、ぼんやりと2ヶ月間、そのことを頭の隅で考えていた。
そして、はたと気がついたのだった。

CMやポスターで、本来の広告側の目的である「紹介」や「説明」を十分に展開したとする。
それはしかし、不特定多数の他者への、いわば「挨拶なしの押しつけ情報」なのである。毒のある言い方をすれば、発信者による「押し売り」なのだ。見せられているほうも気づいていないことが多いけれど。
受けとる側のわれわれは、広告主の意図とは別のことを考えながら生活を送っている。
そこに唐突な「挨拶なしの押しつけ情報」が来れば、当然、心には温度差が生じているはずだ。

そうではなく、「ただの面白いなにか」であったなら、どうか。
自然と目はそちらを向く。
我々の生活を楽しませてくれる情報。それはほんのちょっとだけ面白ければ十分で、無意味であっても構わない。
いや、むしろ無意味なほうがよい。
我々は、疲れているのだから。

アピールする場で、あえてポイントをはずして見せ、そうやって油断させておいて、ポイントを射抜く。
“抜く”とは、畢竟、そういう演出なのだ。表面を削って余計なものを付着させて、スゴさを見えにくくしながら、気を引く仕事なのだ。
意味も内容もある、充実しているその表面を、あえて惜しげもなく崩す。乱す。壊す。消す。汚す。
ある意味では、水戸黄門が地位を隠して旅するのと同じ、一種の韜晦(とうかい)趣味。
隠されたスゴいことがチラ見されたとき、かえって本来以上に奥深くかっこよく見える。

しかしそこまで話を広げると、“イキ(粋)”かヤボかの美意識論にまでいってしまい、
「角帯を背筋でしめる野暮な奴」
(浴衣を着るのに、結び目を背のどまんなかにもってきたらイキじゃないよ)
などといった川柳を切り口に、イキとは何か、何がカッコ悪いとか、そんな美学を繰り広げたりして、深いのか浅いのか、もはや何の話をしているのか、わけが分からなくなりそうだ。
少なくとも、野暮な性格の私が語れる領域ではない。

それでも“抜け感”だの“イキ”だのの話で、なんとなく行き着くイメージ。
それはたとえば、正装で決めてぐいぐい自己アピールしてくるギラギラ男よりも、おしゃれ着を着崩してリラックスした様子でぶらり浜辺を歩いている男のほうに、たぶん都会の女はぐっと興味を抱くはずだという、そんな空想の光景だ。