2014年7月30日水曜日

表現の禁則処理

 ワープロソフトで「禁則処理をかける」といえば、たとえば改行した際に頭に「。」や「、」が来てしまったりしないように、入力結果が「そうならないようにルールとして」処理させることである。

 それと似たことで、自分の考えを表現する場合に「そう表現しないように」していることが、私にはいくつかある。
 ここにあえて示しておきたい理由は、それが人それぞれのセンスや好みの問題でもあるからだ。私がそう思っていても世の中ではそう思われていないことは多い。やもすると、私だけが歪んだ思想を持っているのかもしれない。
 もちろん自分では「自分のがイイ考え方だ」と思っているから、そうしているし、ここに示して各人それぞれの反応を期待したいのである。


1.思想の「危険」視

 保守思想は革新派の思想を、革新は保守を、つまりお互いの意見を批判する際に、よく「それは非常に危険な考え方で」と書いたり、影響力のある本のことを「危険な書物」と評したり、社会の方向性をみて「危険な傾向」と言ったりする。

 その「気持ち」は分かる。私のばあいは、安倍首相が憲法の解釈を変えたり憲法改正を急いだりして、戦争により向かいやすくなりつつある社会傾向を、「大丈夫だろうか?」と感じることがある。

 しかし、あえて私は「危険」という言葉は使わない。
 なぜなら「危険」という言葉は簡単で便利だけれど、脅迫的な強調表現だからである。理屈でなく独断で説得にかかろうとする一言だからだ。

 「危険」という言い回しのニュアンスを考えるとわかるだろう。
“好まない方向に他者が進むことを予防したいがための、全否定を込めた独断的な注意喚起”
の表現なのである。いわば「通せんぼ」するための一言であろう。

 だから崖崩れの注意喚起とか電気製品の使用上の注意などではなく、思想分野に「危険」を使うとなると、奇妙なことになる。
 それでも、なかには実際に危険な思想がある、という人もいる。
 たとえばオウム真理教やナチズム、イスラム原理主義など。
 しかしこれらのものだって、危険だからと遠ざけたまま思考・言論の俎上に載せないのは私はよくないと思う。
 欧州ではナチズムが禁止されている。それでいて、否定されさえすればコメディ映画にでもアクション映画にでも使用できる。他方、欧州のあくなき戦争参加は終わらない。ただナチズム的思考停止が法的に行われているのみだから、ナチズム禁止と、民族差別の禁止あるいは戦争の禁止とは接続しないわけだ。

 ヴォルテールに有名な言葉がある。
「私はあなたの意見には反対だ、だが、あなたがそれを主張する権利を私は命をかけて守る」
 ちょっと演技じみていてこそばゆいが、さすがは18世紀の代表的な啓蒙思想家、誠実な態度を示している。
 彼は、「危険」と言って相手の思考停止を狙ったり、相手の情報摂取を阻止するようなことはしないのだ。

 さて、ひとつ具体的な例をあげておけば、佐藤優・立花隆共著『ぼくらの頭脳の鍛え方』という本では、佐藤氏がプラトン著『国家』を「危険な書物」として論難している。佐藤氏は「危険」という表現がお好きで常用する。
 ただし、「危険」表現好きの評論家は佐藤氏のみではない。右向き傾向・左向き傾向の強い雑誌を開けば、必ずと言っていいほど思想の「危険視」表現は何度も登場する。ぜひ、留意してあれこれ読んでみていただきたい。


2.批判行為の否定

 批判とは否定的内容を含む評論のことだから、むろん批判を受けた側はふつう快く思わない。
 それで、反論に出る。――ここまではよい。

 だがその反論の中でよく耳にするのが、
「そんなこと言われたら、何もできなくなっちゃうじゃないですか」 
 という表現である。

「こっちは頑張ってるのに、何で批判なんかするんだよ」という気持ちの表れなのだが、まるで批判を被ったことで実際に全てを潰されるかのように想定して、批判の存在自体を非難してしまうのである。
 そこに論理の飛躍がある。
 「批判」とは否定的な「意見」である。「意見」を受けただけで、すべてを阻止されたかのように書くのは正当な反応ではない。

 まず、不特定の者から批評を受ける立場にあるもの(=公になっているものすべて!)は、その当事者としては、もちろん肯定的な意見を望んでいるだろう。
 肯定的意見なら嬉しいし発展にも繋がりやすい一方で、否定的意見なら不満だし後退にも繋がりやすいということはある。
 だが、肯定的意見だけウェルカムで否定的意見はいけません、と批評内容をコントロールすることなど出来はしない。
 発信している以上、受信側に何らかの影響を与えている。ということは、受信側の意見が反応として返ってくるばあい、こんどは発信者がその受信者となる。常に、発信する側に内容の決定権はある。
 反応を受理するかどうかについては、受け取る側にその自由はあろう。ただ誠意があるならば、自身の発信したものに対しては、どんな反応をも一旦は受理しようとするに違いない。
 
 批判される側の心の痛みはわかる。まるで実害を受けたかのような不快感だろう。
 人は元来、批判に弱いものだ。
 しかし、批判の段階ではまだ強制性はほとんどない。批判を受け取る側の反応にそれはかかっている。

 さて同じく、「批判」したものへの返答的「批判」も、可である。
 「批判しているのはこちらなのだから、批判されたほうはそれを呑め!」というのはただの横暴だ。
 批判されたら批判的に返答し、さらにそれに批判を返し、そういったことが論が尽きるまで続くのが、私は望ましいと思う。
 次第に互いの思想の中に、答えは練り出されてくる。


3.「未成熟」の年齢表現

 思想、考察のなかには、あまりにも「稚拙」だったり「幼稚」なものが時としてみられる。
 その延長線上で、「ケツの青い」「おしゃぶりでもしてろ」「よだれ掛けして」などの表現は、「お前はまだ赤ん坊の域を出ていない」つまり大人のじぶんとは成熟さにおいて雲泥の差があってキミとは話にならないよ、という侮辱を込めた批判表現だろう。
 それは、大人なら誰しも経験値がある程度は上がっているので、初期的で荒削りすぎて、一般的な批判で吹き飛ぶような意見は残らず、ある程度の反対意見には対抗できるくらいには常識的かつ堅牢になっていると、そう見込んでいるからこそそうでない場合を指していう批判表現である。
 とくに専門家や政治的立場にある人間が、言ってはダメなことと子供でも判別できることをうっかり発言する様子をみると、その立場にいるべき人間では困る、専門家のくせに、と民衆が思うのも自然なことだ。

 さて、そこに年齢を持ち込む表現をする人がよくいる。
「3才の子どもかよ」
「小学生レベル」「中学生レベル」
「15~6歳の子供のように」
 私は、その年齢ごと特有の一般的な精神状態を認めつつも、こうした批判表現を感じ良く思わない。
 なぜなら、その年齢にはその年齢での精神的真理があるからだ。その頃の本当の悩みがあり、思考があり、大人になって失われてしまう大切なものもある。また同時に、同年齢層にも様々な生き方があるわけで、多様性の存在を無視して一括してイメージ化するのもいただけない。

 マッカーサーは戦後日本のことをこう言った。
「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年だ」
 これは民主主義の成熟度の低さについて言ったとか、変化の可能性について言ったとか、文化の違いについていったとか、つまり賛否の両方を込めた多義的な一言である。

 クレイジーケンバンドの「ガールフレンド」という歌に、
「食事も食事も ろくに喉通らぬ 中学生でもあるまいに」
と恋愛感覚を学年的に表現した面白い一節がある。

…こういうことは、一般表現として有効性が見込める。
ところが、それを侮蔑的批判表現に使うと、表現が品格を落とすこととなる。
私の手元にあるあからさまな具体例を以下に示そう。

雑誌『映画芸術』の2013年秋号に載っている、ドラマと映画に関する連続討論の記事の中に、宮﨑駿監督『風立ちぬ』に対する批判的評論があって、こう語られている文章がある。
・西部邁 「この映画を作った人の理性や感性は、人間で言うと15、16歳で止まった精神世界の人なんだろうなと思った」
・西部邁 「そのセンチメンタリズムなどに、15、16歳の精神だなと感じてはいました」
・西部邁 「15、16歳の子供がこの映画を見て喜ぶのは分からなくもないけれど、二十歳過ぎた大人だと、もう少し考えようぜ、と」
・西部邁 「日本の左翼連中というのは、15、16歳で精神年齢が止まっている人が多いね」
・寺脇研「(宮崎アニメは『コクリコ坂から』以降)それこそ15、16歳の精神年齢に戻ってしまった」
・寺脇研「(『軽井沢の描き方も)それこそ15、16歳の少年の妄想世界としてでしかありませんよね」

 なぜか執拗に「15、16歳の精神年齢」を批判表現に用いるくだりであるが、彼らは「年齢相応の精神であれよ、みっともないから」といいたいのである。西部・寺脇両氏の精神年齢がおいくつなのかは知らないが。
 しかし、年齢相応がよいことなのかどうかは、人それぞれの価値観でまるで違ってくる。
 詩人のまどみちお氏は100歳を超えても心は子供のままだとご自身で言っていた。
 ロックバンドTHE BOOM の「いつもと違う場所で」という歌に、「人はみな大人になろうと懸命に努力してる子供だろ?」という一節があった。
 結局、大人の精神年齢というものは極めて疑わしく曖昧な表現なのである。だから、そのような表現を用いたところで、正確で論理的な批評ができるはずもない。

 年齢だけでなく、「思春期」「中年」「更年期」「オバさん」「ジジイ」「老人」なども、表現そのものからすればただ年齢的状態あるいは状態的年齢期を指している言葉が、使い方によって侮蔑的な批判表現として用いられうる。
 表現したいイメージは、何となく伝わってくる。
 だがそれでも、限定的で総括的な象徴表現だからこそ、不配慮な点をいくつも含んでいることにも自覚的でなければならない。
 

断っておくが、私は言葉狩りをしたいのではない。
だから、こうした表現を誰に「禁止」するつもりも毛頭ない。
けれど自分には「禁則処理」をかけて極力使わないし、こうした言葉を使っている文章については厳しい眼差しで読むことになる。
必要ならば批判もする。だから表現者は、批判を覚悟して表現するべきであると、私は言いたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿