2014年7月25日金曜日

多読と知識人について/科学について

私はいま、個人的にまた多読期に入っている。
・・・といっても、もし本当の読書家が聞いたら驚いてしまうような少食ではある。
ざっくり読み終わる雑誌が1日1冊。新書本の類を、3日で1冊。
多読かどうかは、自分に甘い私は個人差ととらえたい。


ところで、そもそも多読と知識人との関係性はどうなのか。
私は、よく穿った気持ちで知識人を見てしまう。あるいは、知識人の書いた書物を厳しい眼差しで読む。

まず、読書をしない知識人というものがあるかどうか。
これは、いないと思う。
読書をするかどうかは根本問題ではない。得るべき知識がどこにあるかを探り、それを得るという作業を繰り返すことで、知識は積まれていく。その際、本に書かれている知識は多い。おのずと、それを求めるから知識が増える。

では、読書ばかりする知識人というのがいるかどうか。
これは、ゴマンといるだろう。

だからこそ、私の尊敬する人々は洋の東西を問わず、そのことに警告を発している。
デカルトは、もっともレベルの高い学校で学べることは全部学び、読める本はみんな読んで、そこに本当の知識がないから世間という書物を読もうと考えて長い旅に出た。
二宮尊徳は、農家としては考えられないほど多量の書物とくに漢籍を少年時代から読みふけり、そして大人になり、何と言ったか。「私の教えは、書籍を尊ばず、天地を経文としている」

現実世界をみて真実を捉えよ、という17世紀のフランス人、19世紀初頭(江戸時代後期)の日本人。もちろん、同じことはごく昔から大勢の人に言われたはずだ。


驚異的なまでに多読の人は、著名人を中心として意外と多い。
それができるから、著名になるほどの仕事もできるのかもしれない。
しかし一方で、その人々の仕事の程がいかばかりのものであるか。
我々の手元に届いて見聞きできる彼ら知識人の仕事というのは、彼らの実力の程そのものでもある。
そう思って読んで、内容にガックリくることは、ずいぶん多いのである。
(もちろん、はっとさせられて、なかなか眠りにつけなくなるくらい素晴らしい物もなかにはあるのだが。)


たとえばここに、赤い表紙の最近の岩波新書が2冊ある。

『科学者が人間であること』中村桂子、2013・8月
『人類哲学序説』梅原猛、2013・4月

科学エッセイストと哲学者がそれぞれ書いたもので、どちらも東日本大震災の福島原発事故を踏まえて、現代の科学やその思想を再検討したりもしている。
この2冊については、やがて私はブログ「デカルトの重箱」に取り上げて書かなければならないが、まだ私も調べが不十分なので、いまは先送りする。
どちらの本でもデカルトの合理主義、つまり科学思想の西欧的な非人間性の元凶としてのデカルト哲学が取り上げられ、そこから脱しなければならない、東洋的な柔らかな人間的な思想を頑張って作っていかねばならない、的な論旨で書かれていると思う。

だが、一言でいって、・・・この論旨はあまりにも「古すぎる」。

デカルトは、その書物の発表当時から現代に至るまで、これでもかという批判にさらされてきた。
パスカルの「無益で不確実なる」という痛烈なる批判もさることながら、デカルトへの批判には「たしかにそのとおりだな」と思われることも数多くある。現代からみると、デカルト本人が「確証した」と言っていることの多くが、おかしかったりもする。

批判のなかでも、我々の現代においては、「科学思想批判→デカルト哲学批判」という脈絡がひとつの定石となっている。
だが、この批判が定石となったのは、いつの頃なのだろうか?
少なくとも環境問題が悪化した1960年代にはそのように言われたはずだ。産業革命(18世紀後半~19世紀前半)にも、大同小異のことをきっと言われたはずだ。もっと前、「自然に帰れ」と言ったルソーの頃(18世紀中頃)にもそれらしきことは言われただろう。
さらに日本では、第二次大戦に入る頃から戦時中にかけて、西欧批判のひとつとしてもデカルト合理主義の批判があったに違いない。西欧近代合理主義の非人間性に対して、東洋の温かな人間性がピックアップされた(私の手元には、そんな古書もある)。
・・・これは、もっときちんと私も調べてから書きたい。


だがそもそも私がデカルト好きなのは、この「個人主義」で「人間中心主義」で「冷たい合理主義」であると捉えられるデカルトが、その根底に、とても温かで、人間を思いやろう、社会を良くしよう、自分は良い生き方をしよう、という考えがあふれている点である。
それは、読めば分かるのに、まぁ、ほとんど語られることがない。私自身、この点についてデカルトを語った本を読んだことがないかもしれない。

だから、さっきの「科学思想批判→デカルト哲学批判」の脈絡は、世間での定石でありながら、私は(変な話だな)とつねづね思っているのだ。
科学思想の元凶がデカルトです、と悪者を1人つくるのはいいが、ホントに我々が全世界で350年間も発達させてきた科学および科学技術の抱える諸問題が、デカルト1人に行き着くとでも思うのだろうか? そして、その点が批判され続けたならば、350年もの間それを改善する人間がでなかったとでも言うのだろうか? もしデカルトが何も書かなかったら、現代の科学思想の問題は発生しなかったのだろうか? 書物ひとつに我々現代社会の問題の原因を求めることができるだろうか? デカルトは個人的な本を書いただけである。

それに、デカルトは権力者ではなかった。むしろ無職の放浪人だった。あとは隠れて生きていた。宗教の経典や法律のように誰かに対して強制力を持った思想ではなかったのである。

ひとりの男が自分の意見を本に書いて、それが罪になったり、何百年間も危険視・問題視されるのであれば、誰が何を言っても罪になりうるし、どんな人間の発言も危険ということになりうる。
だからちょっと考えれば、この手のデカルト批判があまりにも短絡的で滑稽なことに気がつくだろう。

日本文化を専門とする哲学者の梅原猛氏に対して私は尊敬の念をもっているので、このような安易な文章を読むと残念な気持ちになる。
今年3月の雑誌「芸術新潮」には、梅原氏の“親鸞の謎”が特集として長々と載っていて、面白かった(氏が思いついた新説をすぐに感覚的に「確証」してしまう点が気になるが)。


さてこのように、中村・梅原両氏は福島原発事故の遠因のさらに遠因を、コピーにコピーを重ねたような古びた論説でデカルトに求める。しかも昨年出版の新書で、「これは新しい論です」といわんばかりの文面で、焼き直しデカルト批判を書いてしまわれている。
我が国で上位にある知識人らが、このような文章を書いてしまうあたりが、私にはどうも不思議でならない。どうして自分で考えを突き詰めずに、他人の話止まりにしてしまうのだろう。


デカルトとは話題が外れるが、知識人の犯すもっと酷い例を挙げれば、立花隆氏やら竹内薫氏やら養老孟司氏・茂木健一郎氏など、科学を誰よりも知っていますという顔をしている科学者・科学エッセイストの知識人たちが、まるで科学的でない発言をする光景をみる。
彼らは原発事故を「科学的にみて」大したことがないとか、予測できなかったとか、逆に安全性が証明されたとか、そんなことをしゃあしゃあと言ってのけている。どこが「科学的」なのかとクラクラしてくる。
悩ましいことだが、彼らの意見よりも私のような知的素人の意見の方が、よっぽど「科学的」だったりすると思う。


科学とはなにか。科学的であるとはどういうことか。私は専門家より的確に明言できる(と常々自負している)。

“科学とは、即物的・即実際的な真理を、即物的な論理で追求する態度をとる学問のことである。”

これで科学とはなにかは必要十分に説明・定義できている。
そして「科学的」とは、“即物的・即実際的な真理を即物的な論理で追求する姿勢での”ということだ。


もし「原発は事故を起こさない」と明言していて、事故が実際に起こったら、「原発は事故を起こすかもしれない」と言っていた人のほうがより科学的に正解だったといえる。細かな理屈はまたそれで吟味できるが、大まかなこの命題においても、即実際的にマルかバツかははっきりする。

同じく「原発は安全かどうか」(←あまりにもざっくりした問題だが)も、安全の対象や定義(度合い)などを明確にして、それで対象となる人間などが受ける被害の度合いで論じ合うことができる。

ただしこのとき、いかに「科学的」であっても、議論が対立することはもちろん往々にしてある。
というのは、互いに自身こそがより科学的なのだという自信はもっているはずだからである。
その際はしかし、それぞれの論説が即物的・即実際的な真理を追っているか、それを即物的な要素を使って破断なく説明できているかどうか、注意しておくことだ。

よく「感情に流されずに」という表現が「科学的」の反対語として使われるけれど、「感情的」かどうかはこのとき「科学性」とは関係がない。感情的に叫んでいおうと無表情でささやこうと、科学的なものは科学的だし、そうでないものはそうでない。

もうひとつのポイントは、科学イコール真理、ではないことだ。
そもそも人間には、真理そのものを取り出すことはできない。真理というものには様々なジャンルがあるが、なかでも即物的あるいは即実際的な真理を即物的要素を使って取り出そうとする態度が、科学なのだ。

学問分野を「態度だ」ととらえることに抵抗がある人は、次のばあいを考えてはどうか。
道路のノイズを音楽といえるかどうか。音楽とは、人が味わうための芸術を、音を使って作り味わう分野である。交通ノイズを使って芸術を作ろうという姿勢が、それを音楽にする。あるいは、それは音の芸術だと捉える人は、それを音楽に分類する。そうでない人は、分類から外すだろう。パンクロックさえ「音楽ではない」という人がいるように。

ある意見が「科学的か」どうかは、それと同様に意見が分かれるし、細かい点についてはほとんど議論の意義がないと私は考える。

現実世界にはありえないタイプの数式を考えるのは即物的ではないじゃないか、という人がいるかもしれないけれど、論理構造自体をモノと捉えればそれはまさに即物的といえる。
歪のない三角形などのような科学的なモデルは現実世界には存在しない、という人がいるかもしれないけれど、そうしたモデルは即物的な研究から導き出されたはずだし、再表現する際にも近似的にそれを示すはずだ(科学の成果は、目に見えない形であることも多い。即物的に正確な表現ができなくても。科学実在論、でしょうか)。
統計的な検証こそが科学であるとする人がいるかもしれないが、なぜそれが科学を成立させるかを考えれば、まずモノのあり様を即物的にデータに落とし込んで即物的に処理するという方針に基づいているからであるはずである。
科学であるかどうかは再現性にかかっているとする人がいるかもしれないが、なぜそれが科学的かどうかを決める判断基準になるかを考えれば、再現性の可否が即物的・即実際的な真理を証明する1手法であると(他にも基準はあると)分かることだろう。

またもっと言うと、本人が即物的な思考だと思えば、宗教的な話題やファンタジーの中にさえ科学性は生まれる。
時代ごとにも違ってくる。昔の疑似科学が現代から見て科学的ではなかったとしても、当時は科学の第一線だった可能性もある。そのばあいは、「その時代としては充分に科学的だった」といえる。

そして結局のところ科学には、対象世界を即物的に捉えそれを即物的に説明する手法をもちいるのだから、トートロジーで閉じた体系を作る志向があろう。

いずれ同時代ならば、即物的かどうか、即実際的かどうかは、他人同士でコンセンサス(共通認識)がある程度は期待できる。マルかバツか。即物的でない思い込みはできるだけ削れているか。

科学かどうか。科学的かどうか。当然ながら、そこに善悪はない。
それはひとえに、モノを即物的に捉え説明しようとする態度にのみかかっているのだ。

そして世の中を引っ張る知識人たちに期待するのは、孫引き論説の組み合わせで新しいことを作ることのみならず、それをもう一度壊すくらいに疑って、調べて、考えて、土台をしっかりさせてもらいたいということである。


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